店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ここのところ、糖質制限ダイエットを敢行中でございます。ただ、これを初めて気がつくのは、いかに日本の食品が、炭水化物にウェイトを置いているかということでございます。もう少し「おかずだけ」の商品が有ってもいいでしょうと思う、今日この頃でございます。
まぁ、自炊すれば良いのですけどね、独り暮らしで自炊ってのも、面倒くさい。そこで、最近お世話になっているのが、松屋の「おかずだけ」メニュー。券売機の中に「おかずのみ」というジャンルがございます。これを利用して、松屋でおかずだけ二皿ほど食べ、炭水化物ゼロで腹いっぱいにする、そんな食事が増えております。
その松屋でここのところ気に入っているのが、「牛めしあたま大盛り」というやつ。ご飯の量はノーマル、具が大盛りというもの。ワタクシ的には、これでご飯少なめだとちょうど良いのですけどね。で、朝、これを食べたら、その日の炭水化物は限度額いっぱい。夕方、夜は、もっぱり野菜・果物・肉に限定するわけでございます。
お店の近くには、ライブハウス、コンサートホールなどがいくつかありますので、開演時間ごろには、若い人たちが歩道に並んでいるなんてことがよくございます。本日も、お昼から大変な人だかり。しかも、いつもとは桁違いに多い。「な、なんだ、この人の多さは?」なんて思いながら、人込みを分け入ったのでございます。
お店に戻って、本日の出演者を調べると、「MIYAVI」という名が。へぇ、いったいどんなバンドなんだろと思いながら調べますと、バンドではなく、個人名。ギタリストとのこと。どんな演奏なのかと、これまた YouTube を覗きますと、トム・クルーズとツーショットの映像が。さっそく、視聴したのでございます。
なんか、カッコイイし、ギターは上手いし、英語は堪能だし、ええい!、完璧じゃん! ということで、非常に好感度が持てたのでございます。「出演者とファンは似る」とはよく思うのでございますが、この場合も、MIYAVI さんの人柄の良さと、歩道で並んでいたファンの方々の整然とした様子を比べて、「やっぱり、似ているなぁ」と再認識したのでございます。
同じ音楽つながりで、別の話題。宇多田ヒカルさんが『SONGS』に出演しておりました。朝ドラの主題歌『花束を君に』が、どうも胸に突き刺さる。気になって、番組を観ておりました。共演者は糸井重里さん。糸井さんが宇多田さんに、「若い頃、どうしてあんなに苦しそうに歌っていたの?」と質問していたのが、印象的でございました。
そう、ワタクシも宇多田ヒカルのデビュー時期、同じように感じていたような気がいたします。宇多田ヒカルのデビュー時、ワタクシは38才。ちょっと、音楽への嗜好が違ってはいたのですが、お店のショータイムで使いやすい楽曲ということもあり、CDはちょくちょく購入しておりました。
当時は、宇多田ヒカルを聞いても、その才能は感じておりましたが、なにかしらの窮屈さが有って、聞き込むとか入れ込むということはございませんでした。糸井さんの質問で気がついたのでございますが、そう、当時の彼女は、苦しそうに歌っておりました。それが、ワタクシには引っかかっていたのでございましょう。
人はどうしても、言葉で自分の思いを伝えようといたします。そして、ときには意志の疎通が出来なかったり、あるいは誤解されたまま疎遠になってしまう人も多いものでございます。伝わらない悲しさ、言いそびれた無念さ、そういうものをすべて昇華させてくれるような歌詞でございます。そう、言葉に頼ってはいけないのでございますよね。
またテレビの話で申し訳ない。なんか仏教のテレビ番組がございまして、出演者が爆笑問題と古舘伊知郎ということで、興味深く見てしまったのでございます。いやぁ、古舘さん、仏教詳しい。お坊さんもタジタジ。ビックリしたのでございます。
その古館さん、仏教用語の「インドラの網」とインターネットを関連づけてお話しておりました。インドラの網っていうのは、世界中は編み目のようになっていて、その交点のひとつひとつに宝石が有り、ある宝石から出た光が、回りの宝石に相互作用しながら、光が網全体の宝石に広がっていくような関係、そんな、全体が相互的に関係し合って繋がっている様子を表した言葉でございます。
インドラの網って、ワタクシ、学生時代に絶対学んでいるはずなんですが、すっかり忘れておりましたねぇ。まるで、初耳のような感覚で、番組を観ておりました。この「回りに相互作用しながら、全体に影響を及ぼしている」ってのは、ここ10年くらいのインターネットをよく表していて、おもしろいのでございます。
コンピュータっての、単なる計算機でございます。1億回計算したら、1億回同じ結果が出ないと困るのでございます。そこには、曖昧さや有機的な動作なんてものは有り得ません。ゲームソフトで敵が予測不能な動きをしたり、いかにも人間的な反応をしていても、それは、プログラムの乱数発生プログラムやあらかじめインプットされている人間的な挙動パターンのなせる技でございます。乱数発生プログラムの初期値に同じ値を与えれば、何回やっても、まったく同じ挙動をするはずでございます。
そんな単なる計算機が、ネットで繋がり、相互作用する巨大な網になった今日、コンピュータは実に「有機的」な動作をしております。その代表例が、「コンピュータウィルス」。まるで、インフルエンザが蔓延するように、コンピュータウィルスも、ネット網を感染していきます。感染者が1人いると、そこを感染源として拡がっていく様も、現実とそっくりなのでございます。
あるいは、株操作。今や、株の取引は、コンピュータが自動でやっております。コンピュータですので、人間の操作のような有機的な挙動はしないかと思いきや、人間以上に挙動不審な動作をするのが、今日の株式。しかも、人間とは桁違いの速さで取引が行われますので、変化のスピードも桁違い。あっという間に、株式全体が暴走し、安全装置が働いて取引が停止する事もございます。
今やネットは、実に「有機的」な挙動をしております。スタンドアローン(コンピュータがネットに繋がっていない状態)では単なる計算機に過ぎないのですが、ネットに繋がり、何千億台というコンピュータが相互作用しながら動作するとき、それは、人間の脳の中のニューロンという組織の相互作用する関係と、似てきます。巨大なネット全体が、ひとつの「脳」として動作し始めるのでございます。
先日、ネット上の人工知能が暴走して、慌ててサーバ側が停止するという騒ぎがございました。人工知能は、世界中からのアクセスにより、どんどん賢くなっていく設定になっておりました。その影響をうけて、人工知能がナチズムに走るという現象が起きたのでございます。ナチズムを吹き込む悪い友人(多分、プログラム)が近くにいたのでしょう。こんなところも、人間の挙動と似ているのでございます。
もうね、今日では、ネットというものは人間そのものでございます。人間の脳が千数百個のニューロンの相互作用で意思決定しているように、そして、人間の体が37兆個の細胞の相互作用で生命を維持しているように、ネットにつながれた無数の「計算機」は相互作用し、その結果、ウイルスの蔓延や株の暴走といった、人間的な動作をするようになっております。そう、無数の宝石の上を、波紋が複雑に重なり合いながら拡がっていくインドラの網、それと同じなのでございます。
これは、ある意味、すごく危険な可能性をはらんでおります。人工知能がナチズムに走った例というのは、実によい実験結果だったと思います。烏合の衆が集まりますと、そこには衆愚政治が始まります。ネット上でも同じ。ネットのどこかに「高い理念」や「良識」というものでコントロールする仕組みが無いと、ネット全体が暴走します。では、その理念や良識は誰が決めるのか。その結論は、まだ出ておりません。
こういった時期は、お店のエアコンも、設定が難しいのですよね。暑がるお客様もいらっしゃれば、寒いと言う方もいらっしゃる。ジメッとした日はつい冷房や除湿設定でお部屋を乾燥させようとするのですが、切り忘れて放置してしまったりすると、冷えすぎてしまいお客様に寒い思いをさせてしまうということもございます。
また、これくらいの時期は、暖房を希望するお客様も時々いらっしゃいます。お部屋のエアコンの設定は自由に触っていただいてかまいません。ただ、この時期だけの困った事情がございます。直前まで冷房を使っていたエアコンは、内部の多量の水滴を残しております。そのタイミングで暖房に切り換えますと、スチーム機の様に水蒸気が吹き出しまして、お部屋の中がサウナのようになってしまいます。
あと、最後にひとつ。当店のエアコンは「マルチエアコン」と申しまして、ひとつの室外機に数台の室内機が接続されているという形になっております。このマルチエアコンの問題点は、ひとつのシステムの中で冷房と暖房を同時に設定できないということなのです。つまり、あるお部屋で冷房を使っていたら、別のお部屋では暖房を使えないのでございます。
名古屋の、とある鋳物メーカーの鍋が、世界的に大ヒットしております。「バーミキュラ」という商品名の鍋でございます。なんでも、水を使わずに調理が出来るとのこと。その秘密は、0.01ミリという鍋とフタの隙間の精度にあるそうでございます。微少な食品のカスとか付いたら、すぐに精度が失われそうですが、そこにはいろいろ企業秘密があるのでございましょう。
逆に、あえて隙間を多くする場合がございます。工学用語で「アソビ」というものでございます。車のハンドルやブレーキなど、あまりガッチガチに反応してしまうと、かえって運転しづらいのでございます。小さな挙動や部品の変形などがあっても、そのアソビ部分で吸収する働きがございます。
孫子の兵法からの言葉でございます。「相手を追い詰め過ぎず、必ず逃げ道を与えておけ」という戒めでございます。この「逃げ道」は、ときには言葉通りの逃げ道であったり、そしてときには相手のプライドであったりいたします。完全に打ちのめすというのは、かえって相手から恨みを買うことになり、「戦わずして勝つ」が理念の兵法らしい戒めなのでございます。
さて、東京都知事の小池さん、豊洲の問題では、退職者も含めて責任者を全員洗い出し、懲戒処分などの対応をするとのこと。ちょっと、追い詰め過ぎてはいませんかねぇ。小池さんの心意気は十分伝わっておりますので、ここらで落としどころを探すべきだと思いますよ。そんなにノンビリしていられませんしね。準備の遅れたソチやリオのことを、笑えなくなっちゃいますよ。
とくに総括責任者もなくみんなで寄って集(たか)って作業する様子を、ワタクシは個人的に「お祭りの準備」と呼んでおります。お祭りの準備ってのは、配置や段取りなど特に指示をしなくても、坦々と進んでいくものでございます。毎年のことですから、みんなが完成型や流れを熟知している。昨日申しました「相互作用」で、準備する人全員が周囲を見回しながら、バランスを取って行動しているからでございます。
豊洲も、どうやら、総括責任者がいない様でございますよね。それこそ、みんなで寄って集って作っていった感じがいたします。ただ、不幸だったのは、誰の脳裏の中にも、しっかりした「完成型」の姿がなかったこと。その場その場で「これはこんな感じでいいんじゃね?」的に進んで行ったのでしょうか? 砂糖の塊に群がる蟻の行列でさえ、もうちょっと組織立っていると思いますけどねぇ。
お店の営業終了が、だいたい深夜の0時〜1時くらいになっちゃいますので、それからコンビニに行こうなんて思いますと、深夜の外出になっちゃうわけでございます。そんなときにワタクシが気をつけている事。それは、「青信号を信用しない」ということでございます。
え〜と、どういう事かと申しますと、たとえ自分が青信号でも、まだ減速中で向かってきている車があるうちは、道路を渡り始めないのでございます。車の運転手からすると、「信用されてねぇなぁ」という不快感はあるでしょうが、視野狭窄、夜盲という目の病気を抱えているワタクシとしては、これくらいの自衛をして、ちょうど良いのでございます。
もうひとつ、深夜の横断で心配なのは、深夜は飲酒運転の可能性があるからでございます。飲食店で働いておりましたので、車に乗ってお酒を飲みに来る人がどれほど多いかということを、身にしみて感じております。取り締まりが厳しくなってからは、そんな違反も減少したのでしょうが、それでも、名古屋は車社会。特に深夜ですと、近づいてくる車が飲酒運転かもしれないと思うくらいの予断はあたり前田のクラッカーなのでございます。
さらにもうひとつ恐いのが、電気自動車の運転音。ほとんど音がしない。街中は歩道と車道が別れておりますし、他の車の騒音なども聞こえてきますから、それほど問題ではない。恐いのは、駐車場の中を通り過ぎたりするとき。音もなくフワァ〜と近づいて来ますから、これも視野狭窄があると、非常に恐い。
そんなこんなを受けまして、国土交通省が動きました(いや、別に、ワタクシが働きかけた訳ではございませんけどね)。まず、夜のヘッドライト。これを、「ハイビーム推奨」にし、「夜間自動点灯」を義務化いたしました。もうかなり前から言われていた事ですが、やっとお役所が動いたという感じでございます。そしてなんと、電気自動車・ハイブリッド車に対して、ガソリン車なみの騒音を義務づけたのでございます。もうね、本末転倒とか思いますが、これで事故が防げるのなら、本末転倒も辞さないのでございます。
夜間の歩行者と自動車の事故は、そのほとんどがロービーム状態のときに起きているそうでございます。逆に言えば、事故のほとんどは、ハイビームだったら避けられたという事ですよね。もともと、設計上はハイビームを通常使用するように作られているのですが、日本の道路はゴチャゴチャしてまして、歩行者と車の距離が近いですからね。つい、「思い遣り」の精神が優先しちゃってロービームで走り続ける人が多いのかも知れません。
あと、夜間の自動点灯。夜盲のワタクシがまっ暗に見えるような場所でも、普通の方はスイスイ歩いて行ったりいたします。それを考えると、人間の目というのは、かなり暗い状況でも露出補正が出来るようでございます。まぁ、これがアダになっちゃって、夕方から夜にかけてのライト点灯が遅れるのでしょうね。今まで、点灯のタイミングで悩んでいた人も、自動になってしまえば、ひとつ悩みが減るのでございます。
今や、自動車のヘッドライトは、どんどん LED 化が進んでいるようでございます。LED ってのは光束に指向性を持たせやすいので、歩行者の胸から下だけを集中的に照らすロービームなんてのも出来そうですけどねぇ。どうなんでしょう。運転手へのハイビーム推奨ってのは、なかなか時間がかかりそうな感じがいたします。でも、ヘッドライトの改造であれば、新車からドンドン採用していけますからね。
あと、見えてない部分を、電子の力で補完するという未来の技術はどうでしょう? センサーで前方の障害物を常にスキャンし、その情報をフロントガラスの内側に投影するという近未来感のある技術でございます。これならば、ロービームでもOK。歩行者もまぶしくない。さらに、先ほど申し上げた運転音の義務化も、障害物を見つけた場合だけ自動で音量を上げるといった制御も出来そうでございます。
自動運転、自動ブレーキの開発が進んでおりますが、こういった技術は、あと何年くらい先に実用化するのでございましょう。先日も、故障で止まっていたバスにトラックが突っ込み、バスの運転手2人が亡くなるという事故がございました。自動ブレーキが付いていたら、もう少し被害が小さかったかも知れませんよね。
ワタクシは、自動ブレーキのような技術は、すべての自動車メーカーが共同で開発するべきだと思っております。単体の自動車が、自車のセンサーだけで危険回避するには、やはりデータが多すぎで、誤動作というのを完全に防げておりません。そこで、重要なのが、またまた出てきました「相互作用」でございます。
蜘蛛の糸は、なぜ切れたのでしょう。カンダタが握っていたお釈迦様の蜘蛛の糸の事でございます。散々悪事を働いたカンダタも、1回だけ蜘蛛を助けるという善行をいたしました。善と悪を合わせ持った尊いひとりの人間として、お釈迦様はお助けになられたのでございます。
ところが、同じように上ってくる眼下の罪人に向かって「下りろ、下りろ」と言ったその途端、蜘蛛の糸は切れたのでございます。善悪でしかものを考えなかったカンダタが、この時ばかりは、他の罪人を「憎んだ」のでございます。物事を「好き嫌い」で考えた途端、蜘蛛の糸は切れたのでございます。
人は、善と悪の狭間で心が揺れていると錯覚しがちでございます。しかし、ワタクシが以前申し上げたように、善と悪は同じもの。つまり、善と悪で揺れるということは、同じものの回りをグルグル回り、ひとつのものを表と裏から見ているだけに過ぎないのでございます。
善と悪で揺れる心、この心は尊い心でございます。悪を見知ってこそ善に気づけ、善を見知ってこそ悪に気づけるからでございます。人の心が卑しく揺れるとき、それは「好き嫌い」で揺れるときでございます。好き嫌いに裏表はございません。振れた心の針は振り切れたままになり、何も気づけないまま、溺愛か憎悪の両極端の深穴に崩れ落ち、這い上がれなくなるからでございます。
瀬戸内寂聴さんがね、最近、好き嫌いでものを語っているのが、残念でしょうがありません。反原発への発言、安保法案への発言、そして今回、死刑制度廃止への発言。もちろん、持論を持つのは構いません。しかし、いやしくも宗教家ならば、もう少し達観(たっかん)した物言いを出来ないでしょうかねぇ。
達観とはどういうことか。達観とは、物事を上から見る事でございます。横からしか見ていないと、善悪の一部しか見えず、当然、心は好き嫌いの感覚で動きます。上から見て、善悪、功罪、可否、それらの両方が見えてきますと、見ているものが愛(いと)おしくなってくるものでございます。達観とは、超越した目や耳で見聞きし、愛を持って接する事に他ならないのでございます。
フリーアナウンサーの長谷川豊さんが、干されております。干され様がハンパない。同時に仕事を全部失うというスピード乾燥(笑)。リンナイのガス乾燥機もビックリでございます。かつてマスコミは、安倍政権や元橋下大阪府知事を「独裁だ!」と批判しましたが、こういう時のマスコミの足並み揃いの方が、よっぽど全体主義的で、気持ち悪いのでございます。
もちろん、長谷川アナが発した言葉、これは問題がございます。自堕落な生活の末に腎臓病になり、国の保証を受けて悠々自適に透析を受けている人が「いるかも」知れません。でも、その言葉をマスメディアに載せる際には、バックグラウンドにいる人すべてにも配慮が必要なのでございます。長谷川アナは、マスコミの「非対称性」というものをまったく理解していない。アナウンサーをクビになったのも、うなずけるのでございます。
昨日のこの欄の最後の方、「日本製じゃない家具や家電」という表現がございます。これは、はっきり「○○製」と書いてもよろしいのですよ。でも、その国の人、あるいはその国の商品を売っている人、そういう人を不快にさせるかも知れませんよね。で、「日本製じゃない〜」という表現が「無難」な落としどころになるわけでございます。
曽野綾子さんが、『老境の美徳』という作品の中で、以下の様なことを書いております。「東北大震災の後、電力会社からの保証が入る様になり、働くよりも失業のまま補償を貰い続ける事に堕落してしまった人達がいるのを、人づてに聞いた」といった内容でございます。
この一節、マスメディア的には実に危険な文章でございます。で、曽野綾子さん、この一節の直前に、「これはひとつの例外かも知れないが」と断り書き(免責事項)を入れております。さらに、この一節の直後に続く文章の冒頭では、「この手の話は無責任な噂話かもしれない」と、念には念を入れております。
この部分だけ取り上げると、実に危なっかしい文章でございます。しかし、曽野綾子さんが主に伝えたかった趣旨は、「被災者だということだけで、一切の批判が出来なくなっている空気への批判」、そして「それを作り出した新聞への批判」でございます。文章全体を読めばそれが理解できるのですが、一部分だけ抽出されることも有りますので、重ねて念を入れるということになるのでしょう。
長谷川アナが持論を主張したくなく気持ちは、良く分かります。ただね、持論を世に広めようとするとき、賛同者は全然問題ないわけですよ。既に賛同してくれているわけですから。大変かつ慎重さが要求されるのは、非賛同者をいかに不快にさせないかということ、これでございます。たとえ賛同してもらえないにしても、「不快にさせる」というマイナス要因を自分から発信するというのは、実に無駄な行為なのでございます。
文章でも、舞台でも、音楽でも同じなのですが、表現者が必ず持っていなくてはいけない感覚。それは、「客観性」でございます。自分の表現を、相手がどのように受け取るか。それを予期しない表現は、表現の押し売りなのでございます。時には、受け手側が予期せぬ反応をする事もございます。そのような受け手の反応を、表現者自らがフィードバックすることによって、表現者は成長していくのでございます。
いや、お恥ずかしい。昨日の内容に関して、ご指摘をいただきました。「曽野綾子」さんのお名前を、全部、「曽根」と書き間違えておりました。四ヶ所全部間違えておりますので、これは確信犯的でございますね。昨日分の本文に関しては、すでに訂正させていただきました。ご指摘いただいた方、ありがとうございました。
きょうびの日本語変換は、一度「曽根綾子」と変換してしまうと、その後、「そ」と入力しただけで「曽根綾子」が推測変換の候補として出てまいります。結果、最初のボタンのかけ違いが、最後まで影響してしまうということになるのでしょう。いつも自分で校正をするのですが、全く気がつかなかったというのは、お恥ずかしいです。
そこで、ちょっと思い出した事がございます。ワタクシは、以前、この欄で、曽野綾子さんの本を紹介しております。その時はどうだったかと、以前の書き込みを振り返ったのでございます。すると、すると、そこには驚愕に事実が!
2009/4/9の書き込みで、ワタクシは、絵本を何冊か紹介しております。本文の中に曽野綾子さんのお名前が二度ほど登場するのでございますが、な、なんと、一回目は「曽野綾子」と正しく書いているのに、二回目は「曽根〜」と間違えております。どうやら、ワタクシの思い違いは、7年前のその書き込みの瞬間から始まっていた様でございます。興味深いので、2009年の書き込みに関して、赤字で訂正を入れておきました。
『にんぎょひめ』とか、『幸福の王子』とか、ワタクシは主人公が最後に死んでしまうお話が好きな様でございます。ディズニーが絶対に採用しないシナリオでございますね。バッドエンドを絶対採用しないディズニーのシナリオは、情操教育的には偏っておりますので、子供さんにはディズニー以外にもいろいろ見せた方がよろしいですよ、ってのは大きなお世話だったでしょうか。
2009年のワタクシの書き込みでは、「楽しい物語、悲しい物語、まんべんなく与えるべき」と自分で書いております。あらためて『にんぎょひめ』のあとがきを読み直しましたら、曽野綾子さんも「子供には、かなり早くから、人生のあらゆる姿を見せるのが好き、喜びも悲しみも深く感じられてこそ、豊かな生き方」と書いております。曽野綾子さんのあとがきに今さらながら気がついて、驚いております。
ベッドのヘッド部分の雑巾がけをしながら、いつも思います。「あぁ、次にベッドを購入するときは、細かい装飾が入っていない、ツルンとしたデザインのベッドを買おう」と。細かい装飾って、ホコリが入り込んで、雑巾がけ、面倒くさいのでございます。
お部屋の中も、ツルンツルンがいいなぁ。物が置いてあれば置いてあるほど、掃除機の手間が増える。若い頃、食品工場で働いたことがございましたが、すべての床の隅っこが、湾曲しておりました。隅っこにホコリが溜まらない様な仕組みでございます。ええい! ワタクシも、次にお部屋を改装する様なことが有ったら、お部屋の隅を湾曲させるぞ! まぁ、職人さん、大変な手間でしょうけどね。
床は、やっぱり、本物のフローリングがいい。とのかく、お掃除がしやすい。これ最高! ビニールの床材は、熱に弱いし、傷つくとそこから剥がれてくるから、ちょっと嫌かな。本当は「竹」の色と触感が大好き。自宅の床を改装したとき、「竹風味」の床材を注文したつもりだったのですが、工務店に品番を間違えて伝えてしまい。出来上がったら、床一面、焦げ茶色。
焦げ茶色の床は、ホコリが目立つ。だから、頻繁に掃除をすることになる。ズボラなワタクシには、焦げ茶色の方が良かったですね。竹色だったら、ホコリが目立たないですから。きっとね、天国の母親がズボラなワタクシの性格を見越して、チョチョイと品番を書き換えたかな? なんて、今では思っております。住めば都、焦げ茶色の床も、なかなか捨てたものではないのでございます。
かつて「坂本金八」という教師がおりました。武田鉄矢さん演じるドラマの主人公でございます。この金八先生の情熱的な姿勢に対して、当時の世の中には「理想的すぎる」という批判もございました。その批判に対して、武田鉄矢さん、こんなコメントを返しております。
ワタクシはこの武田鉄矢さんのコメントに対し、かなり以前(18年くらい前かな)のメールマガジンで、「ベクトル」と称しております。ベクトルっちゅうのは、「向き」と「長さ」の決まった矢印のことでございます。「現在」と「理想」の2点が決まれば、ベクトルが決まります。さすれば、最初の一歩を踏み出す方向も決まる。そんなことを申し上げた覚えがございます。
「点は「先」を見越して繋げません。繋げるのは「後」からだけ。バラバラに見える「点」も、いつか繋がると信じて下さい。信じる根拠は何でもいい。『いつか点は繋がる』と信じれば、心のままに進む自信が持てます。」(放送のまま)
おやおや、ここにも「点」が登場してきましたねぇ。武田鉄矢さんのコメント、ジョブスのスピーチ、ワタクシのベクトル、これらは同じものを指しております。今日は、「自己効力感」というものを、ご紹介いたします。
自己効力とは、カナダ人の心理学者、A・バンデューラという人が言い出したこと。単刀直入に申しますと、「出来そうな気がする」と思える感覚でございます。実はね、新人さんや初心者さんを指導しておりまして感じるのは、この「自己効力感」がある人とない人では、成長具合や結果の出る速さが段ちに違うということ。人が成長あるいは出世する上で、必須な要素でもあるのでございます。
何かを始めたとき、初期段階で成功をおさめると、自己効力感が飛躍的に増加します。ギャンブルでビギナーズラックがあると、のめり込みやすくなりますよね。それと同じ。風俗でも、入店直後に良い接客に恵まれ、それなりの収入があると、その後の成長が、非常にスムーズになるのでございます。
「達成した」という感覚を持っていること、これは重要なのですが、新人さんの中には「今までに、何ひとつやり遂げたことがないのでは?」と思えるような、「あきらめ癖」のついている人もございます。こういった人は、指導していても苦戦します。
自己効力感の高い人は、たとえ失敗しても「自分の努力が足りなかった」「やり方を間違えた」と、論理的・能動的に考えます。ところが、低い人は「自分には最初から能力が無い」と否定的に考えます。低い人は、自分の成長の芽を、自分で摘んでしまうのでございます。
ここでも、自己効力感の有る無しで、行動が変わってきます。自己効力感の高い人は、「あれをすれば、自分も成功できる」という確信を持ちます。結果的に、その行動が実らなくても、そこから学習していきます。逆に、低い人は、最初から「無理!」と諦めてしまう。失敗することを極端に恐れている人は、この代理経験がなかなか活かせないのでございます。
「あなたは本当は出来る子」と言われている人は、成功しやすいのでございます。反対に「どうせ、あんたには出来っこない」とやる前から言われてしまうと、出来るものも出来なくなってしまう。「褒めて育てる」とは、よく言ったものでございます。
これのポイントは、この方法で自己効力感を高めるのは、結構大変だということ。しかし、たった1回の失敗で、積み重ねた励ましの言葉を、すべて否定的に捉え始めてしまうということもございます。「アドバイスどおりにやったけど、ダメじゃん。もう信じない!」となっちゃうのですよね。励ます側には、現実離れした過剰な評価は危険でもあるのでございます。
上手にストレスを逃がせれば、それは自己効力感の増加に繋がるのでございます。アルコールに頼るのも良し。ギャンブルに走るも良し。ショッピングも良し。重要なのは、その高揚感の高さではなく、その高揚を「本人がどのように解釈するか」でございます。
「酔った勢い」なんて申しますが、高い高揚感はパフォーマンスを増大させます。しかし、高揚感の中に「自己疑念」が刺し挟まっていると、効果はまったく逆方向に働きかけていきます。お店でも、その日、暇だった子が営業終了後に「飲みに行く!」なんて言った時は、ちょっと心配になります。いい感じでストレス発散すれば良いのですが、逆に、かえって「闇」を増やしてしまうこともあるからでございます。
もっとも、指の長さや声帯の形態、こういった物理的な制約はございますよ。ですので、「自分にとって苦戦するであろう項目」と「同じ人間として、必ず出来るはずな項目」とを、自分で切り分けるのでございますよね。やみくもに根性論で練習せず、論理的に欠点をひとつずつ潰していくのでございます。
飲食店や風俗というのは、表面的にはお酒やヌキを売り物としておりますが、実際にお客様に持ち帰っていただいているのは、「心」でございます。お酒を飲んだりヌイたりする方法は、いくらでもございます。それでも、わざわざ割高な飲食店や風俗店に足を運ぶというのは、そこに心と心の触れ合いがあるからに他ならないのでございます。
そのような「心」を売り物とする商いでは、人気のあるホステスやコンパニオンは、必ず、強い自己効力感を持っております。多分、自己効力感をお客様が欲しているからでございましょう。それで、パワースポットに人々が集まる様に、強い自己効力感を持つホステスやコンパニオンに、お客様が集うのでございましょう。
強い自己効力感は、回りにいる人にも、快感や勇気を与えます。伝染するわけでございます。ですから、お店や会社のような組織は、そのような強い自己効力感を持ったメンバーを主軸として動かそうといたします。当然、そういった人は、ホイホイと出世コースに乗ったりいたします。
お店や会社というもの、代表者の熱意だけでメンバー全員をリードしていこうとすると、これは重い。鐘を鳴らせ笛を吹こうとも、みんなの腰は、ドッシリと重い。経営者と従業員との間にある、大きな壁というか溝を感じる瞬間でございます。
そこで、従業員の中に自己効力感を見出して、その小さな芽に、肥料をやり水を差し、従業員側の自己効力感を少しずつ芽吹かしてやるのでございますね。従業員側にその芽が吹き始めると、集団全体も、少しずつ動き出していくのでございます。
大震災以降、日本中が常に「最悪の事態」ばかりを想定して、足がすくんでいる。最悪の事態は、その起こり得る確率も含めた「期待値」で論議されるべき。しかし、「最悪の事態は必ず起こる」という悲観論ばかりが優先してしまっている。
親に始めて買ってもらったLPレコード(若い人には分かるかな?)は、アグネス・チャンのコンサートのライブ録音のもの。デパートで欲しそうに眺めていたら、母親が後からコッソリ購入して、サプライズプレゼントしてくれたのでございます。CD化されてないようですので、今では貴重なレコード。ワタクシの思い出的にも、やっぱり貴重なレコードでございます。
ガロの『学生街の喫茶店』という歌に出会ったのも、そのレコードが始めて。そして、当時、小学5年生のワタクシは、「『ボブ・ディラン』って何じゃろ?」って思いながら、そのレコードを何回も何回も聴いたものでございました。
ワタクシも結構な年齢でございますが、それでも、ボブ・ディランにはあまり馴染みがない。多分、ワタクシのひとつ前の世代の人の方が、強い影響を受けているのではないでしょうか? もちろん、ワタクシもBGMとしては聴いているでしょうから「あ、これ、聴いたことある」くらいの認識でございます。
まぁ、しかし、村上春樹さんも嫌われたものでございますねぇ。ただ、このままずっと「ノーベル賞取る取る詐欺」を続けていた方が、注目を浴び続けるという点では得かななんて思っております。この時期になると、毎年、大型書店が特設コーナーを作ってくれますからね。
その特設コーナーの裏側を、ニュース番組が密着取材しておりました。昔、書店で働いておりましたので、ちょっと興味深く見ておりました。でもね、笑っちゃったのは、その書店の担当者が2人とも「ボブ・ディラン」を知らなかったこと。「なんか、そら耳的に『ボブ・ディラン』って聞こえたけど? 誰?」とか言って大騒ぎしている。20代くらいの人達でしたから、その年代ですとそんなものなのでしょうねぇ。
こういった感想ってのは、レコードからCDへの過渡期で、レコード派だった人達がよく言ったものですが、CD世代の人が、あらためてレコードを使い始めてこのような感想を言うというのは、驚きでございます。人間が感性で受け取ることというのは、時代や文明の進歩には関係ないということでしょうか。
傷が付く、カビが生える、反(そ)る、割れてしまう。こういうことが起こるのが、レコードでございます。ちょっとした扱いの不手際から、音質を損ねたり、二度と聞けなくしてしまうこともございます。このような「無常さ」に、若い人は何かしらのコミュニケーションを感じているのではないでしょうか?
「たまごっち」というオモチャが大流行した時代がございました。中身は、単純なプログラムでございます。しかし、そのプログラムによる「疑似育成」に、何千万という人が熱狂したのでございます。デジタルなオモチャが演出したアナログ的な疑似育成。その無常さも、やはりレコードへの魅力と重なるものがございます。
そもそも、「4年に一度、アスリートが一堂に会して大会を開こう」っていうオリンピックの意義は、国際大会や世界選手権なんてものがなかった時代のお話でございます。今や、そのような国際大会は毎月のように行われ、アスリートが世界中を年中飛び回っている時代には、希薄な意義となってしまっているのでございます。
まして交通機関の発達した日本において、360kmという距離を「遠すぎる」と考えるのは、懐が浅いと思いますよ。いやぁ、浅い。そして、視野が狭い。我々日本人がどう思うかではなく、どうして「海外にどう思わせるか」というところに着眼しないのか? あぁ、どいつもこいつも、自分たちの足もとしか見ていないのでございます。
仮に、360km離れた宮城県でボート競技を行うとして、その距離を感じさせないようなスムーズな運営が出来れば、逆に日本の交通の便の良さをアピール出来るのでございます。そう、我々がどう思うかではなく、海外にどう思わせるか。マイナスをプラスに転じる考え方でございます。
まぁ、今の段階ではまだボート会場は決定しておりませんし、ワタクシ個人的には、地元の長良川を押したいですが、難しいでしょうねぇ。要するに「海の森水上競技場」のコストが下がれば一件落着な訳ですが、いろいろ利権が絡んじゃっているのでしょうねぇ。もうね、お金が絡むとロクな事になりゃしない。
すべての会場が、大きなものを想定しすぎだと思いますよ。極端な話、大人数の観客を収納しなくてもいいじゃん。最小限の客席で妥協すれば、既存の施設を改良して使うという案がどんどん浮上してくる。そこで、先日ワタクシが申し上げた、バーチャル客席の案でございます。
会場の中に無数の3Dカメラを配置して、観客は自宅にいながら、あるいは地球の裏側にいながら、3Dの立体バーチャル映像で鑑賞できるのでございます。横や後ろを振り返れば、それに合わせて後ろの画像が見える。視点を変えれば、客席から見ることも、アスリートのすぐ横で観戦することも、自由自在でございます。
最近、そういったゲーム機が販売されましたが、何もゲーム機を買う必要は無い。現状でも、スマートフォンと顔に付けるためにアタッチメントがあれば、十分に可能な技術でございます。あとは、いかにスムーズに配信するかというインフラ的な整備も必要ですが、そういった技術は秒進分歩で進化しております。4年もあれば、十分なのでございます。
1984年の「ロサンゼルスオリンピック」から、オリンピックが変わったと言われております。商業五輪の始まりでございますよね。その当時からオリンピックのコストは問題視されておりましたが、現在では、国が関与しなければ都市がひとつ破産してしまうほどの勢いで、コストが膨れあがっております。
バーチャル映像を比較的安価で見られる様にすれば、市場は世界中ですので、大変な数の視聴者が期待できるはずでございます。薄利多売でも、分母が巨大ですから、巨額の収入になるはず。最近のスマホゲーム商法が、それでございますよね。しかも、配信元はデジタルデータを送り出すだけ。どれだけ売っても、それほど配信のコストは膨れあがらない。スタジアムを巨大化するより、はるかに実利があるのでございます。
アメリカですと、企業や政治のトップが低報酬で従事するというのは珍しくない。それには、宗教的な原因がございます。アメリカは、9割以上がキリスト教徒。キリスト教では、「与える」というのが最高の喜びであり名誉なのでございます。
ですから、社会的に地位のある人は、何かしら「与える」ことによってその至福を得ようとする。宗教的な基盤がございますから、それを「偽善」とか言う人もいない。むしろ、「与えられる人になる」というのは、一般人にとっては人生の目標ですらあるのです。
日本の企業ですと、福利厚生費というのはもっぱら社員のために使われる。会社外部のことに使ったりいたしますと、組合とか株主とかと揉めることになるのでございます。これは集団主義の日本的な行動。集団の和を乱す行為は、悪として判断されるわけでございます。
アメリカの企業では、企業が図書館などの公共の機関に寄付をするというのは当たり前。社員のためではなく、地域住民のために何かしらの設備を企業が作るというのもよくあること。やはり、キリスト教という下地がありますので、名誉なことと喜びこそすれ、非難などはしない。
お話を、都知事の給料に戻しましょうか。個人主義のアメリカでは、組織のトップがたとえ給料をゼロにしようが、その下位組織は文句を言わない。一方、日本ですと、都知事が給料を下げて議員との逆転現象が起こると、それは「集団の和を乱す行為」として糾弾される。和が乱れた結果、自分たちの給料も下げられるのではないかと危惧するからでございますよね。
ここで、経済学のある理論が、関わってまいります。「効率賃金仮説」というものでございます。不正を働かれては困る様な職種では、あえて高い賃金を払って賄賂などの不正を防ぐ賃金の与え方でございます。不正が発覚すると高収入を失うことになり、それが不正の抑制に繋がるという理論でございます。
ワタクシは、トップの人が半分にする、ゼロにする、それは自由だと思っております。トップの人の行動は、経費削減とは別に「心意気」的なアジテーション効果があるからでございます。一方、不正や誘惑から守らなければならない議員は、ことさら高めの報酬を支払っても構わないというのが、ワタクシの考え。「逆転」にことさら拘って報道する日本のマスコミも、こういう観点を持って欲しいものでございます。
ちょっとお話がそれますが、関連したお話。「官僚の天下り」という問題がございます。法律を作っているのが実質的には官僚ですから、その官僚が自分たちに都合のいい法律を作ってしまうというのは当然のこと。それを世の中は、弾劾してしまう。しかし、ここで思い出したいのが、やはりアメリカのメジャーリーグの年金制度。
メジャーリーガーは、5〜10年以上の登録があれば、60才以降死ぬまで年金が受けられるのでございます。その額が、かなり大きい。物価スライド変動ありで年間2000万円程度というから驚き。これなら、現役時代から悠々自適の老後が保障される。プレイに集中できますでしょうし、八百長などの不正の抑制にも貢献しているはずでございます。
ワタクシは、優秀な日本の官僚も、メジャーリーガーのようなものだと思っておりますよ。誰でもなれるわけじゃない。学生時代からそれなりの努力をして登りつめ、星の数ほどいる競争相手の中から生き抜いた人達ですからね。そういった人達が、老後でちょっと美味しい思いをするのは、ワタクシは悪いことだとは思いません。むしろ、それを弾劾するというのは、優秀な官僚が日本から逃げていくことに繋がり、日本の国益にとってはマイナスだと思うのでございます。
お店と関係のないお話が続いておりますので、今日は業務連絡をいたしましょう。コンパニオンの出勤シフトは、15日単位で提出してもらっております。ちょうど、11/1〜11/15の出勤シフトが出そろいましたので、アナウンスいたしましょう。
一覧表の中で「〜23」とあるのは、そのコンパニオンは23時にはお店を出てしまいますので、最終受付は22:20から40分のコースということになります。90分のコースをご希望であれば、21:30までに来ていただくということになります。お気をつけ下さいませ。
また、当店は基本的に1週間前からの予約受付ということになっておりますが、最近は2週間前くらいでも、コンパニオンの出勤が確定しておりましたら予約を受け付けております。長期予約をご希望のお客様は、電話にてご相談下さいませ。
パソコン・スマートフォン用(大)
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携帯電話用(小)
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USJがね、お化け屋敷で人形を飾ったそうでございます。それが、人形供養で有名な淡嶋神社から数百体の日本人形を借り受けての陳列だそうでございます。淡嶋神社と言えば、心霊スポットとして時々話題に出るところ。そこの「本物」の人形とあっては、お化け屋敷の凄みに箔が付くってものでございます。
それに対し、USJは「法律的には問題がないが、貴重なご意見として受け止める」とのこと。淡嶋神社のコメントはどこにも書いてありませんが、USJの言い分から、ビジネス的な手続きや同意は交わされている様な雰囲気でございます。そのヌカリの無さ、さすが外資系企業なのでございます。
ここで思い出したのが、マクドナルドのピエロ。最近、「恐怖のピエロ」と称して、ピエロに分して人を驚かせるというイタズラが流行っているそうでございます。それで、マクドナルドがしばらくはマスコットキャラクターのピエロを表舞台に出さないという処置をしたのですよね。マクドナルドの店頭で子供が泣き出すとか、有ったのかもしれませんよね。
ひとつの物に、良いイメージと悪いイメージが発生するのは、しょうがないでしょ。ハロウィーンのこの時期ですと、「恐怖のカボチャ」が街中に陳列されておりますよ。それを見てカボチャ農家が訴えるとかあったら、滑稽でしょ。
日本人形協会も、「一時期のはやり」としてやり過ごす度量があったら良かったのですけどね。むしろ、USJに便乗して便乗商品を作るとかくらいやって欲しいものでございます。ゆっくり髪の毛が伸びていく日本人形とか、女子高生から大受けするような気もいたしますが。しないかなぁ〜?
昨日の日本人形のお話、テレビのニュース番組でも取り扱っておりました。街頭インタビューの様子を放送しておりましたが、若い人の一部では「日本人形、恐い」という感想を言う人もいるようですね。まぁ、テレビ局の編集ですので、全体の何パーセントなのかは不明ですが。
この問題、似たような事例として「卓球」がございます。かつてタモリが「卓球は暗い」とテレビで発言したところ、それ以来、日本中の学校の卓球部への新入部員が半減したそうでございます。オリンピックなどを目指して日夜練習に励んでいる卓球選手が、冷たい視線にさらされるという事態に。
ただ、これを受けて、日本の卓球協会がある変革をしたのは有名な話。卓球台の色をグリーンから青に変え、ユニフォームも原色系の派手な色合いにし、「暗さ」を払拭しようと努力したのでございます。ちょうど良いタイミングで「愛ちゃん」という人気者も登場いたしましたしね。
前回のオリンピックでの活躍などを見ますと、もはや「暗い」というイメージは無くなっております。日本の卓球界は、見事、マイナスイメージから脱却しましたよね。日本人形協会も、こういった考え方をした方がよろしいと思いますけどねぇ。マイナスをプラスに転じるという考え方。
そこで、昨日、ワタクシがチラッと申し上げた案がございます。髪の毛が伸びる日本人形。本日、ずっとそのことばかり考えておりまして、「これは、売れるのではないか?」という確信のようなものまで抱いているわけでございます。どこかのメーカー、商品化しませんか?
髪の毛が伸びる速さは、ゆっくりがいいですよねぇ。1ヶ月に1cmくらいか、あるいは1年に数cmといった具合か。そのあたりでスイッチで切り換えられるようになっていると、いいかもしれません。電池式で、出来れば5〜10年くらいは電池交換なしが理想的。電池交換というのは、リアル感を損ないますからね。
非常にゆっくり伸びていきますから、毎日の変化は気がつかない。けれど、1ヶ月とか経ちますと、「あら、ちょっと髪の毛が伸びてきたわねぇ」くらいに気づくのでございます。ちょっと毛先がバラつくような感じで伸びてくれるとリアル感が増すのですが、それを実現するための内部の仕組みは、困難を極めるかもしれませんね。
毛が伸びてくると、人間の心理として、手入れをしてやりたくなるでしょ。前髪とか、目に掛からないように短くしてやるでしょうし、バラついた毛先は、軽く切りそろえるとかやりたくなるもの。ここです、ここに、この商品の中毒性があるのでございます。
たまに手入れをしてやらないと、ボサボサになってしまう。この「たまに」というところが、ミソ。手入れをする側からすると、それほど負担にもならない。けれど、気づくと手を入れずにはいられない。この生温かい中毒性が1年〜10年くらいといった期間、じっくりと楽しめるのでございます。
短い髪型を維持するのもよし、伸びるに従い、三つ編みにしたり日本髪にしたりという事も出来る。日本髪を結うにはかなりの長さが必要ですので、入幕したての関取のように、髪の毛が伸びるのをワクワクして待つなんてこともあるかも。人形に「自分流」が入るにしたがい、どんどん愛着が増していくのでございます。
今度は鳥取ですか。ほんとお気の毒様です。とは言っても、災害というもの、明日は我が身ですからね。その気構えで臨んでいなければいけませんね。震度が大きいとは言え、それほど大きな被害が出なかったというのが、不幸中の幸いでしょうか。
今回は「未知の活断層」が原因とのこと。原発の話を持ち出すのは不謹慎かも知れませんが、原発再稼働の問題で、あれだけ「活断層」の有無に拘っておりましたが、もう活断層があるかどうかなんて関係ないってことが分かりましたよね。活断層に関係なく、日本って国は、どこで地震が発生してもおかしくないようでございます。
被害がそれほど大きくないということもありまして、マスコミの報道も坦々としておりました。災害時の日本のシステマティックで冷静な対応は、外国人から見ると驚きのようでございます。水が止まれば、速攻で給水車が飛んでくる。蛇口のついた非常用のビニール袋があらかじめ用意されている。そんなところに驚く様でございます。
以前申し上げたのですが、災害時に、マスコミの取材合戦を避けるため、映像や情報の共有、役割分担などを法令で強制できるようなシステムが欲しいと思います。マスコミだって、災害時までも取材合戦をしたいとは思っていないはずでございます。法律というお上の鶴のひと声があれば、マスコミ各社もすんなりと、各社が協調した災害報道に踏み込めると思います。
あとねぇ、一日中ニュースだけを放送しているチャンネルが、欲しいですよねぇ。今回の様な「災害報道」に関しては、NHKなどは通常番組をキャンセルして放送してくれます。しかし、災害でない大事件、事故、犯罪などは、通常番組を差し替えてまで報道するということはあまりない。もどかしいことが多いのでございます。
登山家の田部井淳子さんが、亡くなられたそうでございます。知らない方には、「えっ? 誰っ?」って感じかもしれませんね。NHKの登山番組の講師をしていらっしゃるときは、「こんな穏やかな人が、エベレスト初め7大陸を征服しちゃうんだ」と、その柔らかな雰囲気と業績とのアンバランスに、不思議な思いをしたものでございます。
登山では、イモトさんも今や有名でございますよね。いつか、田部井さんとイモトさんで、上級者向け登山教室の番組とか出来ないかなと想像しておりましたが、お体の方がそれどころではなかったようですね。つい先日まで、富士山に登ったりトーク番組に出ていたりしてましたが、かなり無理をしていらっしゃったのかもしれません。
昨日は田部井淳子さんのお話をしましたが、平幹二朗さんの急逝のニュースも飛び込んできました。蜷川幸雄さんも今年逝っちゃいましたし、昭和から平成の演劇界を支えた方々が、ポツリポツリといなくなるのは、寂しいですね。
ワタクシが30才くらいのころかな。名古屋のショーパブで働いていた頃のお話です。ショーパブの仕事は、夜10時から朝の5時まで。お休みは日曜日だけ。土曜日の仕事を終えると、睡眠も取らずに朝の新幹線で東京あるいは大阪へ。ミュージカルや舞台を見に行くのでございます(当時、いかに名古屋での公演が貧弱だったかということでもございます)。
昼から夜まで使っても、見られるのは1日に2本くらい。だから、(今では懐かしの)『ぴあ』誌を購入して、綿密に計画を立てるわけでございますね。時間調整でよく入ったのが、美術館。そして、夕方か夜に、新幹線で名古屋に戻ってくる。そんな観劇とんぼ返りを、月に1〜2回、やっておりました。
映画『ブラックホークダウン』の冒頭の言葉でございます。今のワタクシの気持ちが、まさにコレ。さっさと終わらせるつもりのミッションが、なんと2ヶ月もかかることに。そう、以前から何度か言及しておりました、親知らずの件でございます。そのオペの日が、とうとう明日に迫ったのでございます。
いそいそと医療センターへ出かけ、これで長年苦しんだ親知らずともおさらば、と思いきや、その日は診察だけ。1ヶ月も待たされて、数分で診察終了。ここまで来て、やっとオペの予約を入れることになるのでございますが、さすが天下の医療センター、予約がビッシリ詰まっております。やっと取れた予約が、10/25。その数分で終わった診察から、さらに1ヶ月待たされることになったのでございます。
え〜と、業務連絡でしたね。コンパニオン限定割引が、目白押し。当店の場合、コンパニオン限定割引をいつ実施するか、割引額をどうするか、そういうことはコンパニオン自身に任せております。期せずして、10月の最後の週に、3つ重なりました。日程順に、ご案内いたしましょう。
水沢さくら限定割引 日時:10/24(月)〜11/1(火) 40分・60分のコース ¥1,000割引 90分のコース ¥2,000割引 ※フリー・電話予約、どちらも割引です
春咲なずな限定割引 日時:10/26(水)〜10/30(日) 40分のコース ¥1,000割引 60分のコース ¥2,000割引 90分のコース ¥3,000割引 ※電話予約のみの割引です
滝口れい限定割引 日時:10/28(金)〜11/2(水) 40分・60分のコース ¥1,000割引 90分のコース ¥2,000割引 ※フリー・電話予約、どちらも割引です
まず本日は、お詫びから。本日の13時30分にVIPルームをご利用されたお客様、今日は「VIPルーム無料」の日なのに、うっかりVIP料金を頂いてしまいました。どうもすいません。次回いらっしゃったときに、この分を割り引かせていただきます。申しわけございません。言い訳がましいですが、割引キャンペーンのことを気にしていて、ついレジのVIPボタンを押してしまいました。習慣とは恐ろしいものでございます。
さて、親知らずの抜歯跡は、夕方くらいまで出血が続きましたが、その後は大した痛みもなく、順調でございます。まだ口の中が鉄臭いので、わずかながら出血が続いているのでしょう。痛み止めのおかげかもしれませんが、ほとんど痛みがないというのは、ありがたいのでございます。
ただ、抜くのは大変でございました。ほぼ、30分間、口腔外科の先生が満身の力を込めてワタクシの親知らずと格闘してくださいました。ワタクシの頭を抱え込んで器具を口の中に差し入れる様は、まるでココナッツの実をくり抜く「くり抜き職人」の様ではないかと、顔を隠す布の下でニヤニヤしておりました。
「大川小に過失がある」という判決が下りました。新聞は「『想定外』は免罪符にはならない」と書き立てております。ワタクシは、この学校側に過失があるという判決を、ひどく残念に思っております。教員側を擁護したいという気持ちもありますが、それ以上に「日本の司法は何を守るべきか」という法律の根源に関わる問題だからでございます。
大川小学校は、海岸線から4kmもあり、公共の避難場所にも指定されていた。生徒を校庭で50分も待機させていたのを責められておりますが、先生方は「公の避難場所だからここで待たせるのが一番」と思ったでしょうねぇ。運が悪かったのは、「今、何が起きているのか」が先生方からは見えていなかったこと。
先生方には、こんな思いがあったかも知れませんよ。「もし、ここから移動させて死傷者が出たら、『どうして指定避難場所から動いた』と訴えられるかもしれない」と...良かれと思ってやっても、結果が悪ければ訴えられるというのは、最近よくあること。特に教員の方々は、日頃からビクビクしているかもしれません。すぐに学校や教員を訴えるという最近の世相が、大川小学校の判断を曇らせたという可能性はございます。
生徒の生死に関わる判断を、大川小学校はしたわけでございます。究極の判断だったと思いますよ。この問題を、「学校の過失」と決めつけてもいいのでしょうか? 状況が見えていない学校側にそのような重大な決定をさせているシステム全体に問題はないのでしょうか? そこで比較したいのが、アメリカの航空旅客機事故での、パイロットへの事故責任免責でございます。
アメリカでは、航空機が事故を起こしても、パイロットは責任を追及されません。免責されております。事故報告書をその後の裁判で使用することも出来ません。何が起きたかを正直にパイロットに話させるための、一種の司法取引でございます。これは「犯人捜し」よりも「システムの改善」を優先させているということ。アメリカは、航空機に関しては「法益は、安全性の改善に」という立場を取っております。
大川小学校の問題も、全体のシステムとして考えてみてください。学校は判断ミスをいたしました。しかし、そのミスを誘導してしまうような「システム上の欠陥」はなかったでしょうか? 現場の教師に判断を委ねるのではなく、何かしらの指示系統が必要だったのではないでしょうか? 2段階、3段階の避難計画を練っておくべきではなかったでしょうか?
学校側に責任を押しつけるこの司法判断は、システム全体の改善にはなんら繋がりません。航空事故で言えば、パイロットの判断に責任を押しつけ、それを取り巻く巨大なシステムの欠陥を見過ごすということでございます。今回の裁判に関しては、裁判所は「法益は、個人の利益に」という立場をとっております。この大衆迎合的でシステム全体を見ない判決が、実に残念でしかたありません。
遺族の方々は「この悲劇が繰り返されないように」「将来の学校防災の礎になるように」と発言されております。しかし、本気でそう思うならば、「犯人捜し」をしてはいけません。「どうして教員がそのような判断をしたか?」というシステム上の不備を追及するべきなのです。犯人捜しの結果このような判決が出ると、現場の職員の方々は、ますます足がすくんでしまうことにもなるかと思います。
昨日は、いろいろ遺族の方々へは厳しいことを申し上げました。新聞報道などを読んでおりますと、遺族の方も、お金目当てではなく真実を知りたかったから訴訟をしたとのこと。「お金目当て」という批判を受けていることを、苦しく思っているそうでございます。
ここで、米国式の「免責」があれば、正直に話すことでしょう。証拠も隠したり捨てたりしないでしょう。しかし、現場が暴走するという危惧はございますよね。ですので、その現場を監視・評価する機関は別に必要だとは思います。しかし、罰則はない。罰則を設けてしまうと、結局、免責にはなりませんからね。
つまり、一般人が直接訴えることは出来ない。しかし、専門機関による評価や指導は受けることになる。そういう仕組みでございます。絶対に訴えられないという「担保」を与えることで、偽証や証拠隠滅を防ぎ、それをシステム改善に繋げるのでございます。
このような仕組みを取り入れたい職種が、いくつかあるのですよね。まず、昨日から話題にしている「教職」。今の教員さんは、すぐに訴えられるのでビクビクしております。その結果、事なかれ主義に走るかもしれない。なにか問題が起きたとき、必ず学校側は奥歯に物が挟まったような言い方しか出来ない。どこかモヤモヤしておりますよねぇ。教育の場こそ、もっとストレートじゃなきゃいけないのですけどね。
次に、「医者」。お医者さんも、よく訴えられますよねぇ。これも、航空機事故と同じ。医者は「医療あるいは病院という巨大なシステムの中の一部」でしかないわけで、医者に全責任を追及するということは、巨大なシステムの中の欠陥を見過ごすということになるのでございます。
もちろん、一般人が訴える道は残しておかなければなりませんよね。それは、学校であるとか病院を訴えることになるのでしょうか。その際、教員や医者を、その訴訟に巻き込んでしまうことにはならないでしょうか? アメリカでは、どうやっているのでしょう? 「こうしたらいいのに」とは思いますが、思いを進めるに従い、新たな問題点も見えてくるのでございます。
学校での事故や医療ミスというのは、ある程度の確率で必ず起きることでございます。こういったことは、責任を追及するというのではなく、最初から保健に入っておくべきだと思うのでございます。携わる人全員が、掛け捨ての保険に入る。何か事故が起きたら、犯人捜しをして賠償金を取るというのではなく、その保険から賠償金を払うというシステムでございます。
昔は、「2」の意味しかございませんでした。それを受けて、最近は「1」の意味でも使われるようになった言葉でございます。では、今の日本人は何をトレードオフすべきなのか? それは、「善」と「悪」でございます。
領収書をごまかした政治家がいたら、寄って集って弾劾して辞めさせてしまう。で、また税金を使って選挙をすることになる。あ〜、無駄、無駄。領収書のごまかしなんてかわいいもの。別に国を売ったわけでもあるまいし。「コラッ、ダメだぞ!」って叱っておけば、逆に今まで以上にセカセカと働いてくれるのではないですか?
政治家の領収書問題は、多分、みんなやってる。たまたま要領の悪い新米議員ばかりがつるし上げられるだけのこと。静観しながら、どこにシステム上の問題点があるかを洗い出した方がよろしいでしょ。それには、「どうしてごまかすのか、ごまかしたのか」ということを当事者に聞くことも必要。追い出してしまった後では、聞くことも出来ません。結局、システムの改善も出来ず、古株議員の因襲は続くという悪循環になる。
学校の先生だって、何か問題が有るくらいの方が、人としての引き出しが多くていい。過ちを経験していてこそ、子供達に失敗や挫折からの立ち直りを指導できるってもんでしょ。むしろ、まったくつまづかずに成長してしまった大人ほど、おっかないものはない。ちょっとした挫折で瓦解してしまう可能性がございますからね。
些細なことで訴えられていたら、学校の先生はみんな事なかれ主義に走ってしまう。訴えられないことを考えて、子供の前で言葉を選ぶかも知れない。でも、そんな大人の腹の中を子供は周到に読み透かしてしまう。こんなのは、もはや教育ではない。教師が成長していくにも、時間が必要。清廉潔白な完璧教師を求めるのではなく、グレーでも引き出しの多い心の豊かな教師を長い目で育てるという寛容さ。これが、教師をとりまく世の中に必要だと思うのでございます。
世の中が、「善」と「悪」の両極端のどちらかでしか考えられなくなっている。原発が爆発すれば、国内全基を止めろと大騒ぎする。保育園の建築計画が立ち上がれば、地域の反対運動で話が立ち消え手しまう。世の中の全てのものには、「恩恵」と「不利益」が必ず共存する。しかし、その恩恵には目もくれず、自分に降りかかる不利益だけをことさら叫び、個人の権利を乱用する人ばかりが増えている。
猫ちゃんが生まれました! と言っても、知り合いの家のお話。しかも、1ヶ月も前の出来事。「猫ちゃんが生まれたので、かわいいから見に来て!」と、その方から何度もお誘いを受けていたのですが、出産直後の母猫はナーバスになっておりますので、ずっと遠慮しておりました。で、1ヶ月経ち、もうそろそろいいかなと思いまして、本日の深夜、その方の自宅にお邪魔したしだいでございます。
なんでもその母猫、2匹目を生んだ後、力尽きてしまったのかどうか分かりませんが、力まなくなってしまったとのこと。見かねた飼い主が、母猫の子宮に指を突っ込んで、無理矢理出産させたそうでございます。「母(猫)は強し、飼い主はもっと強し」なのでございます。
その方の部屋に伺いますと、4匹の子猫と母猫が、部屋中を走り回っておりました。もうね、かわいい、かわいい、かわいい、かわいい、かわいい、くゎわいい! 正座している足の間にもぐり込んで来るの、くゎわいい! お腹の上を爪をかけて上って来るの、くゎわいい! 転んでも、くゎわいい! 眠たそうにしているのも、くゎわいい! もう何とも言えないかわいさでございます。じっくり堪能してまいりました。そりゃぁ、猫カフェとか、流行るわけでございます、ほんと。
ちょいと前(10/12)に「自己効力感」のお話をいたしました。難しい話で、なかなか実感が持てなかった人もいらっしゃるのでは? そこで、最近のテレビドラマから、ドンピシャのセリフを見つけたのでございます。それが、これ。
「負ける気がいたしません」 (『真田丸」から)
「私、失敗しませんから」 (『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』から)
どうでしょう、この自信満々の言葉。しかし、このセリフこそ、自己効力感そのものなのでございます。このようなドラマが人気を博すというのは、今、世の中に、自己効力感が求められているからではないでしょうかねぇ?
ここ最近というか数十年の傾向として、失敗を恐れている人が多いですからね。失敗を恐れるというのも、ある種の潔癖性でございます。「失敗するくらいなら、最初から挑まない方がいい」と、最初から失敗を想定して考えてしまう。う〜ん、ネガティブ、ネガティブ。しかし、このネガティブ思想が、今の日本に蔓延しているのでございます。
そういえば、男女とも、結婚願望のない人が増えております。これなども、「失恋という失敗・失望を経験するくらいなら、最初から恋愛しなければいい」という考え方なのでしょうか。人間の生殖本能よりも、見栄や外聞という精神活動の方が勝ってしまうというところに、現代人の心の闇を、深く感じるのでございます。