店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ということで、なんとか、年賀状を作りました。元旦の深夜に、ポストに投函。いやぁ、作り終えてから気がつきましたが、チョイト詰めの甘いところがある。どうか、みなさま方、この年賀状に突っ込まないで下さいませ。
まずね、「トサカ」があるから「オス」でございます。まぁ、これは、ワタクシがニューハーフということで、取りあえず理にはかなっている。ところが、なぜかワタクシは、卵を産むという設定を盛り込んでしまった。卵がポロンと出てくる滑稽な様を描きたい、そのモチベーションが高まったとき、トサカのことなどすっかり忘れてしまったのでございます。
結局、なか卯で軽く夜食を取り、コンビニで買い物をして帰宅いたしました。いやぁ、ほんと、正月感のない道中でございました。コンビニにも、あまり正月風の商品は置いてありませんし、なんとも普通の日と変わらない。ここまで普通ですと、まぁ便利ではありますが、ちょっと寂しくなるのでございます。
まぁ、季節感がないないって言ってましても、一番季節感がないのは、当店でございますけどね。年末年始の混み具合は、毎年、まったく予想が付きません。今年は、年末が非常に混み合いました。元旦と2日は、まぁのんびり。
Uターンラッシュがそろそろ始まっているとのことですので、3日か4日あたりでバタバタとしてくるかも知れませんけど、これもなんとも言えない。1月の第1週がのんびりで、第2週に極端に集中した年もございました。
ということで、サービス業ってのは、いついらっしゃってもいいように、ただひたすら「待つ」お仕事なのでございますよね。従業員にも時々言っておりますが、サービス業は「ランダムにやってくるものを、ただひたすら受け止めるだけのお仕事」なのでございます。
ま〜た、ヘンテコなニュースを発見したのでございます。新しい大河ドラマ「おんな城主 直虎」に因んで、浜松市が「直虎」の語をお土産などに使おうとしたそうでございます。しかし、その「直虎」、すでに商標登録済みだったとのこと。登録したのは、長野県のみそ醸造の会社。その会社は長野の名主「堀直虎」に因んで、ちょうど2年前に登録したそうでございます。
ここで、騒ぎに拍車をかけてしまったのは、浜松市の行動。特許庁に「異議申し立て」を出したのでございます。「ひとつの地域が独占すべきではない」とのこと。普通なら、話し合って解決するとか、使用料を払って使うとか、平和的な解決方法があるのですが、ちょっとこの全面対立的な申し立てに、「おやっ?」と思うワタクシなのでございます。
歴史的な人物名を、特許庁が登録させてしまうところが、そもそもの問題。また、長野県の会社が登録した時期というのが、これまた微妙で困っちゃう。大河ドラマのタイトルって、2年くらい前に発表されるでしょ。ちょうどそのタイミングで商標登録しているわけで、何やら意図が有ったと思われてもしょうがない。
浜松市が申し立てを出すまでに、何らかの話し合いはあったのでしょうかねぇ? それでいて、長野側が頑なな態度をしていての申し立てならば、まぁ、納得は出来ます。しかし、長野の会社は申し立てに対して「寝耳に水」と言っているところから、話し合いなしにいきなりの異議申し立てだったのでございましょう。
浜松側は、「出世法師直虎ちゃん」というキャラクターも出来上がっているとのこと。これで「直虎」が使えないとなると、面倒くさいでしょうねぇ。まさか、人名が商標登録されているとは思わなかったのでございましょう。それを登楼してしまった特許庁も、罪深いのでございます。
オープン以来、16年間、初えびすは毎年通っております。近年思うのは、「暖かくなりましたねぇ」ということ。初えびすへは、営業が終わった後の深夜に行くことになるのですが、オープン当初はとにかく寒かった記憶しか無い。厚着をして、頭や耳まで隠し、完全防備で出かけていったものでございました。中には、雪やみぞれが降る年もございました。そんな年は、熊手を燃やすお焚きの火のぬくもりが、とっても嬉しいのでございます。
ところが近年、非常に深夜が暖かい、コートを着ていっても前をはだけているくらいに暖かい。まぁ、ワタクシが暑がりというのもあるのでございますけどね。今回、熊手を燃やすお焚きをしておりませんでしたが、それも気にならない。むしろ、人混みで暑い。それでいて、宮きしめんは少しぬるめ。まぁ、いいけどね。
紅白歌合戦の演出が、袋だたきに会っております(笑)。巷で騒がれているように、SMAPの出演辞退で、大番狂わせが起きたのでしょうか。「天下の紅白だから、当然出るでしょ、タモリも出るし」みたいな大あぐらをかいていたかも知れませんね。
そこへもってきて、2階のサブステージなんていう新しい試みも盛り込んじゃって、現場は阿鼻叫喚の大騒ぎだったのでしょうねぇ。サブステージは、「とりあえず、使いました」的な感じ。模型ではカッコ良かったのですが、実物を見ると、なんか使いづらそうなステージですよね。日本の芸能には「デベソ」とか「花道」という古典的な舞台装置があるのですから、それに乗っかっちゃっても良かったですよね。
デベソって言うのは、舞台のまん中が客席の方へ張り出している形。客席のど真ん中に出演者が立つことが出来る。花道ってのは、歌舞伎でお馴染み。劇場の後方と前方とを繋ぎ、客席を通り抜けることが出来る舞台。宝塚大劇場のオーケストラピットと客席の間にあるアーチ状の道は、「銀橋(ぎんきょう)」と言うらしい。
西洋の舞台は、伝統的に舞台側と客席側をはっきり区別するのでございます。プロセニアムアーチという額縁状のものを通して舞台を見、そのアーチの向こう側は物語の世界。アーチのこちら側は現実の世界。アーチに下ろされる緞帳(どんちょう)は、物語と現実を分け隔てる隔壁。そして、舞台装置は高く上方向に組み上げられることが多いのでございます。
一方、日本の伝統的な舞台は、舞台と客席をはっきり二分するような構成にはなっていない。能舞台の非対称で舞台を客席が取り囲むような配置とか、歌舞伎の花道とか。西洋式の劇場のように舞台と客席をスパッと二分する境目を、あまり意識させない形になっております。舞台装置も、あまり高さを出さず、横に平面的に作り込むものが多いのでございます。
西洋の舞台は、「絵画」を目指しておりますよね。プロセニアムアーチという額縁があり、その額縁の中にどんな素晴らしい絵柄を作り込むか、それを目指しております。一方、日本の舞台では、「空間」の演出を目指しております。舞台と客席の境目がはっきりしていないことで、観客はその空間の中で体感するのでございます。
では、お話を紅白歌合戦のサブステージに戻しましょうか。このサブステージ、やっていることは日本の伝統芸能の流れを汲んでおります。であるからして、目指すべきは「空間」の演出。つまり、本ステージとサブステージとの両者で作り出す、大きな空間こそに、意味が有ったのでございます。紅白の演出家は、そこを目指すべきだったのでございます。
でも、あのサブステージは、その目標には不向きでございましたねぇ。空間を作り出すためには、本ステージとサブステージの「一体感」が重要。「掛け合い」や「行き来」「入れ違い」といった相互作用の動きで、空間を演出するのでございますが、それが出来ない。
サブステージが本ステージを見下ろす形になっていて、ちょっと距離が有る。そして、両者の間を自由に行き来することが出来ない。本ステージとサブステージという関係と言うよりは、大劇場と小劇場が合体しているような感じ。本とサブの間に、大きなミゾが出来てしまっているのでございます。
2階席の前に作るのではなく、1階席を部分的に外し、大きめのデベソを作った方が良かったのではないでしょうか。演出家も、その方がすごくやりやすかったと思います。デベソなら、多くのノウハウが蓄積されておりますからね。
例えば、同じ料理でも、料理人が「愛情を込めて作りました」と言われれば、現状以上に美味しく感じるもの。「いやぁこの料理苦手でねぇ、頑張って作ったんですけどねぇ」なんてことを料理人がポロッと言ってしまったりすると、食べる人にはマイナスのバイアスがかかりまして、美味しさも半減してしまったりとか。
自分を愛するという行為は、その人自身を輝かせる効能が有るのでございます。そしてその輝きは、その人の挙動のみならず、製作物などへも伝搬していきます。料理人や職人さんが自分の仕事に愛情を込めるとき、その大前提として「自分を愛する」という下地があるのでございます。
でも、自愛も度を超すと、「功利主義」や「自己主義」に走ってしまう。そう、今のアメリカ。今、アメリカは、必死で自分の国を愛そうとしている。そこには「他の国の利益を損なってでも」という前書きが付いてしまっている。どうしてそうなるかというと、「他愛」がないから。「たあいない」の他愛でございます。
他愛とは自己犠牲の精神。キリスト教の大原則でございます。キリスト教徒の多いアメリカでこの「他愛」が影を潜めているのは、矛盾と言えば矛盾。精神的な豊かさよりも、経済的な豊かさへの渇望が勝っているということでしょう。
「自愛」の反対語は「他愛」と思いそうですが、実は違う。自愛の反対語は「自愛できない」でございます。冒頭で、自愛の精神が自分の製作物にも伝搬すると申しました。その製作物には「他人」も含まれるのでございます。そう、自愛と他愛は表裏一体。同じ事を表と裏から見ているに過ぎないのでございます。自分を愛するという行為がそのまま、他人を愛する行為につながるのでございます。
と、いうことは、自愛できないと他愛も出来ないということ。自愛できないのに他愛が出来るというのは、これはまやかしの愛情。詐欺師の愛情でございます。自愛しているけど他愛はできないというのは、自己主義。やはり、まやかしの愛情。自分を愛している"つもり"になっているだけでございます。
ワタクシのお気に入りの「隠岐の海」は、東の三枚目。だいたい、この三枚目あたりを熱気球のように上がったり下がったりしております。才能は有ると思うのですけどねぇ。ただ、うっかり大関になってしまうと、その後の進退が面倒くさくなる。フワフワと漂いながら長く続けるというのも、これまたひとつの人生かもしれませんね。
「大砂嵐」が戻って参りました。この人の写真は、いつも最高の笑顔。番付表の写真は小さな小さな白黒ですが、やはりにこやかに微笑んでおります。「臥牙丸」なども、やはり笑顔の写真が多い。逆に写真写りが悪いのは「鶴竜」。「鶴竜さん、どこ見てるの?」って感じで正面向いてない。いや、向いてるんだけど、そう写っちゃうのかな(笑)?
「正代(しょうだい)」が、あれよあれよと出世しましたねぇ。関脇ですよ、関脇。先場所が11勝4敗で敢闘賞。でも今場所は、初日からいきなり白鵬戦。対戦相手が厳しくなりますから、今場所は苦戦するかも知れませんねぇ。
ほんとうに、ほんとうに、しょうもない余談ですが、NHKの女子アナで「松村正代(まさよ)」さんという方がいらっしゃいます。正代(しょうだい)の対戦の直後にニュースに切り替わり、この正代(まさよ)さんが画面に現れたりすると、「NHK、ウケ狙いしてるか?」といぶかってしまうのは、ワタクシだけなのでしょうかねぇ?
「隠岐の海」「遠藤」「勢」といったイケ面力士が活躍する場所は、楽しいですよねぇ。今場所も頑張っていただきたいのでございます。さらに、「千代の国」の顔立ちもなかなかのもの。イケ面同士の対戦は、土俵の空気もまた違って見えるってもんでさぁ。
とっても暑がりなので、冬でもTシャツでバタバタと動き回っております。でも、ビルの冷えた廊下に出るときなど、ちょいと上着を着ればいいのですが、面倒くさくてそのまま出たりしちゃうのが、いけないのでしょうねぇ。反省、反省。
話はコロッと変わりますが、BS NHKで朝ドラ「ごちそうさん」の再放送をしております。ちょうど今ごろは、女優「杏」さんが子供3人がいる母親役を演じております。顔立ちとか髪型とかが、ワタクシの母親の若い頃に似てきているのでございますよねぇ。なんか、ドキドキしながら最近の放送を見ております。
この「ごちそうさん」に出演していた「杏」さんと「東出昌大」さんは、後に結婚することになりますので、なおさら興味深いドラマでございますよね。朝ドラってのはその撮影期間の10ヶ月ほど、ほぼ共同生活なみに行動を共にしますから、そりゃぁ情も移りますわな。まぁ、よく有ることでございます。
今開催されております大相撲春場所、この初日に、天皇陛下がご観戦されました。歩く姿など、非常にゆっくりゆっくりと動かれておりました。あのお姿を見ると、ご公務はさぞかし大変なのでしょうねぇ。生前退位の話が持ち上がるのも、納得なのでございます。
大きな出来事の割には準備期間が2年というのは、非常に短い気がいたします。1年後という案も有ったようですが、さすがにそれは間に合わないとのことで却下。関係者が急ぎまくっている姿を見るに、天皇陛下の健康状態が気遣われるのでございます。
当店の場合も、ここ最近は、面接にいらっしゃる方は平成生まれがほとんど。面接の際、申込用紙に記入していただくのですが、その際、最近の人は西暦で日付を書く人が多くなりましたね。日常生活で、あまり年号を使わないのかもしれません。と言うワタクシも、西暦は即答できますが元号を聞かれるとちょっと考えますからね。
この日付の表記ってのは、世界的に表記がバラバラで、もうね、困っちゃう。クレジットカードの期限日の入力が「月・年」の順なのは今や周知ですが、カード使い始めの頃は戸惑いましたよね。あと、海外では「年・月・日」だったり「月・日・年」だったりと、混沌状態。
それに加えて、日本の場合は西暦と年号が加わるから、面倒くさい。あと旧暦とか有って、自然と関わりの深い年中行事は、旧暦を使ったりする。中国も、新年のお祝いは旧暦の正月ですしね。あと、度々「世界が終わる詐欺」を繰り返しているラマ歴とか。
ただね、これを機に、日本国内での日付の表記を統一ってのは、難しいのかな。銀行や役所の書類などで、西暦で書くのか年号で書くのかってこと。コンピュータ処理の時代になっては、こういうところに2つのスタンダードが混在しているのってのは、不都合だと思いますしねぇ。
ベッキーさんがテレビに出演しておりましたね。妹さんと一緒の出演でした。昨年は大変な一年のベッキーさんですが、そういう時に気の置けない身内がいるというのは、心強いですよね。騒ぎもひと段落いたしましたし、これからどんどん復帰していくのではないでしょうか。
犯罪を犯したわけでもないのに、芸能界から抹殺せんとする勢いでバッシングするというのも、変な風潮でございます。やっていることは「単なる不倫」ですからね。芸能人の不倫をこれだけ騒ぐのであれば、じゃぁ世の中はそれほどまでに不倫に関して厳格に行動しているかと申しますと、そんなことはない。これは、アドラー心理学で言うところの「優越コンプレックス」。人を蔑(さげす)むことで自分の優越感を見たそうとする欲求でございます。
この優越コンプレックスは、簡単なことでその対象が選ばれてしまうから、タチが悪い。たとえば、コンビニで店員に土下座を強要するお客がいたとしましょう。明らかにコンビニ側に大きな非が有ったりしますと、コンビニが優越コンプレックスの対象となり、世の中は不買運動とかに走ったりするかもしれない。
ところが、その客が謝罪として物品を要求したとかになると、これは強要罪。犯罪の香りがしてくると、世の中のバッシング対象はその客に向かうことになる。ネットでその客の個人情報まで晒されるなんてことが起きるかもしれない。これは犯罪性が絡んでくるのではっきりしてますが、実際には、もっと些細なことで優越コンプレックスの対象が選ばれるのでございます。
学校のイジメも同じ。食べるのが遅いとか、ちょっと服が汚れていたとか、性格が暗いとか、取っかかりは何でもいい。優越コンプレックスを持っている人は、そのコンプレックスを埋めたくてしょうがないので、常に対象を求めてる。そしてひとたびターゲットが選ばれてしまうと、同様に優越コンプレックスを持っている人が同調してしまう。かくして、1人の生徒を多人数でいじめるという構図が出来てしまう。
芸能人の不祥事や、政治家の領収書とか、ちょっと対象となり易いものが現れると、このコンプレックスを持っている人が食いついてしまう。大人が大勢でバッシングする姿は、子供達のイジメ問題と同じ構図でございます。大人が正せていないことを子供達に要求するというのは、子供側からすれば不条理というもの。
教育に携わる方々にとって、いじめ問題というのは大変だと思います。「イジメはダメ」と叱りつけることは簡単ですが、子供は「どうしてダメなの、大人はみんなやってるじゃん」と考えるかもしれない。そうなると、大人にはそれを説明する義務がございます。さぁ、大変ですよ。
題名は「嫌われる勇気」。アドラー心理学の名文句でございます。他にも、数々のアドラーの名文句がドラマの中では次々と登場いたします。香里奈さん演じる女刑事は、そのアドラー心理学を体現する人物という設定。心理学と刑事ドラマを合体するというのは、無理があるなぁと思いながら観ておりました。
人は皆、ウソをつきながら生きております。他人に嫌われないように、ウソをついているのでございます。しかし、そのウソをつきながらの生き方は実に窮屈だと、アドラーは言っているのですよね。あえて嫌われる勇気を持って、ウソをつかず、本音で話すことで「自由」になれる。そんな自由な生き方を目指すのが、アドラー心理学なのでございます。
ただね、ドラマの主人公をその「アドラー心理学を体現する人物」とするのは、どうかなぁと思うのでございます。自由であり、人との上下関係、劣等感や優越感、そういったものを超越しているのがアドラーの考え方でございますよ。ある意味、「完成している人物」でございます。完成しているということは、ドラマの展開上どうやって話を進める?、ということになるのでございます。
物語の文学性というのは、「人間の不完全さ」に有るのでございます。「本当はこう生きたいのに出来ない」という葛藤が、ストーリーに文学性を与えるのでございますよね。完成している人物では、それを望めない。となると、その文学性は脇役で表現することになるのでございます。そこで思い出すのが、同じ刑事ドラマの『相棒』シリーズでございます。
『相棒』の主人公、杉下右京も自由人でございます。刑事ドラマ『相棒』では、「杉下右京の成長」は何ひとつ描いておりません。完全なる人間の右京と、不完全で人間味のある脇役、まぁ、それが相棒だったり犯人だったりするわけですけどね、そのコントラストで文学的感動を持たせているのでございます。
さて、ドラマ「嫌われる勇気」でも、同様に主人公が「完成している人物」でございます。と、なると、重要なのは脇役の存在。そう、このドラマは、脇役が成功の鍵を握っているのでございます。でもねぇ、脇役が普通すぎる。ここでは、アドラー心理学の真逆を生きているような脇役を配置すべきでしょ。スタッフは、主役の香里奈さんに注目しすぎていて、この脚本のキモを見落としてないかなぁと心配するのでございます。
そして、主役は完成している人物ですので、主役の成長ドラマではない。と、なると、成長させるのは脇役。そう、このドラマは、主人公ではなく脇役を重点的に描かなければいけないドラマなのでございます。主人公に触発されて、価値観が変わる、生き方が変わる、そういった脇役を細かく描かなければいけないのですが、このキモもスタッフは見落としているかもしれない。いろいろと心配なドラマなのでございます。
昨日は、「嫌われる勇気」というドラマに関して言及いたしました。ワタクシ的には非常に歯に衣着せた言い方をしたのですが、世の中の評価は非常に手厳しいものが有るようでございます。まぁ、ワタクシもその世間の酷評には、納得しちゃうんですけどね。
あのドラマ、「アドラー」という名前を出してしまったために、日本中の「アドラー信望者」の反感を買ってしまったようでございます。確かに、あの主人公は、正確にアドラー心理学を体現しているとは言いにくい部分が有るのでございますよね。
自分を愛し、自分を解放してやり、自由に生きる、これは「自愛」でございます。ちょっと前に、この自愛と同時に「他愛」も必要だと申しましたよね。実は、アドラー心理学でも同様の主張をしております。自分の属する組織(アドラーは「共同体」と言ってます)の利益に対する「共感」が必要だと、アドラーは説いております。
警察が守るべき社会正義というものに杉下右京が共感する、人命を救うという医者の使命に大門未知子が共感する、そういった主人公の共感こそがドラマのベクトルとなり、文学性や感動の源となるのでございます。でもねぇ、「嫌われる勇気」の主人公には、そういった何かへの共感が見受けられない。実にベクトルの弱いドラマになっている気がいたします。
ドラマの話は置いといて \(^^\)、韓国の慰安婦の像が増殖しているとのこと。韓国のあの攻撃的な国民性も、アドラー的に申しますと「劣等コンプレックス」の現れ。それを克服しようと、いつも自分を大きく見せようとしてしまうのでございます。不愉快に感じられる方がいらっしゃるかも知れませんが、韓国を卑下するつもりはありませんので、冷静に読んでいただきたいと思うのでございます。
韓国の国民性は、大人の注目を引こうとする子供の行動に似ているのでございます。アドラーは、その注目を引こうとする行動に反応してしまうと、ますますその行動を続けてしまうと言っております。日本側がいちいち反応するというのは、火に油を注ぐことになるということですよね。
アドラーはこういう時、どうしろと言っているか? 叱るな、罰するな、褒めるな、そう申しております。つまり「注目してはいけない」ということでございます。言葉通りに解釈すると、「日本は無視し続けろ」ということですよね。
話し合うことは必要ですが、韓国が話し合いの同じ土俵に立ってはいない。でしたら、クールダウンするまでは無視するのがいいと思うのでございます。日本を苛立たせようといろいろ言ってくるので、つい反応したくなりますが、ガマン、ガマン。「クールダウンしなければ話は進められない」と韓国が自覚したところから、未来は生まれるのでございます。
京都の駅伝のテレビ中継が、もう大変な絵柄。テレビ画面だけ見ていると、猛吹雪。望遠レンズで撮影しているので、実際よりも雪が濃く写っているのでしょうが、それでも大変な雪の量。しかも、ランナーが普通のマラソンの出で立ち。信じられない映像でございました。
本日は、お休みが重なりまして申し訳ございませんでした。1人はこの寒さからちょっと体調を崩しまして。もう1人は遠方から通っている人でして、雪のせいで家から出られないという驚きの理由。名古屋の天候を見ていると驚きなのでございますが、ちょっと三重あるいは岐阜よりではよく有ること。まぁ、毎日営業しておりますと、いろいろなことが起きるのでございます。
ワタクシも、疲れが溜まってきますと、体に兆候が出てまいります。一番最初に出てくるのが、口の周り。そういう時は、何かしらの栄養が足りないのでしょうねぇ。唇の周りがピリピリしてくるのでございます。一度病院へ行きましたら、単に「水分が足りてない」との診断。「リップクリームを塗りまくりなさい」と指示を受けて、実行しております。
もうひとつ出てくる兆候が、目の回り。このあたりは毎日メークで肌に負担をかけておりますので、体が弱っているときにはてきめんに現れる。特に、アイシャドーの色素が悪さをする。化粧品の色の中でも、青い色に使われている色素は、肌に対するアレルギーが出やすいのでございます。
そこで、体調が悪いと、目の回りが荒れる。ちょうど青とか紫色のシャドーを塗っている場所だけが、荒れてくる。やはりピリピリして痛いので、化粧が出来ない。そういう時は、きわめて薄化粧で、目の回りもほとんどノーメーク。バランスの取れた食事を取り、疲れを溜めないようにしながら復帰を待つのでございます。
毎日化粧をする仕事というのは、顔を酷使しております。特に、「こする」という動作があまり良くないのでございましょう。アイメークなど、こすって色を付けるような場所は色素が沈着しちゃうのでしょうか、肌の色がくすんで「化粧やけ」というのが起きることもございます。今は化粧品が発達したのか、化粧やけなんてあまり言いませんよね。いいことでございます。
舞台に携わっていたころ、事務所の大先輩の舞台が有りますと、差し入れを持って楽屋へ挨拶に行っておりました。舞台を見終わった後に楽屋へ伺いますと、ちょっと待たされた後に、シャワーを浴び終わった女優さんとかが楽屋へ戻ってくる。シャワー直後ですから、スッピンでございます。かなりショッキングなほどに痛めつけられている素顔を目撃することも、時々ございました。
「起承転結」なんて申します。もともと中国の漢詩に由来する言葉でございますが、ドラマや小説の構成などにも使われたりいたします。テレビドラマの第1話なんてのは、まさに「起」でございますよね。この第1話を見て、2話以降を見るかどうか決める方も多いのではないでしょうか? そんな事もありまして、ドラマの第1話ってのは、非常に重要なのでございます。
新しいドラマの第1話が出そろったようなので、ひとつひとつ感想を申しましょうか? 全てのドラマを見ているわけではございませんので、ワタクシが見た分だけでございますよ。昨年はSMAPの解散などもありましたので、出演者がそれに絡んでいるドラマなどは、微妙な空気があったりして面白いのでございます。
ということで、最初はその微妙な空気のドラマ、「木村拓哉」主演の「A LIFE〜愛しき人〜」でございます。ドラマというのはスタッフとキャストの共同作業でございまして、このドラマは、実にしっくりいってない。キャスト間もギクシャクしている。キャストとスタッフもギクシャクしている。画面から「ギクシャク」って音が聞こえてきそうなドラマでございます。
木村拓哉という人は、厳しい環境でビクビクしていた方が良い演技が出来る人なのでございます。本来非常に器用な人なのでございますよね。良質な演技指導さえつけば、この木村拓哉という人は上手に味づけされ、脚本や他のキャストとしっくり噛み合うようなドラマや映画に仕上がることもございます。
ところが、木村拓哉をそのまま使おうとすると、その独特の味わいに他のキャストが合わせきれず、ギクシャク感が出てしまう。まぁ「HERO」という唯一の例外が有るには有るのですけどね。ただこれは、木村拓哉の責任というわけでも無い。彼の事務所の独特な「家風」が現場を意識させているというのは、容易に想像できるのでございます。
同じSMAPがらみのドラマといいますと、「草なぎ剛」主演の「嘘の戦争」。草なぎさんというのが不思議な人で、天使のような朗らかな人を演じることも出来、かつ、憎しみに満ちた厳しい顔も演じることが出来る。復讐劇であるここのドラマは、草なぎさんには”はまり役”であると言えましょう。
復讐劇であると同時に、詐欺師のお話でもあるのですよね。詐欺師を演じる際には、草なぎさんのもうひとつの朗らかな顔が生きてくるはずなのですが、このドラマの演出家はなぜかそのもうひとつの顔を使おうとはしない様子。復讐劇には、あの朗らかな顔が「狂気」を感じさせることにもなると思うのですが、まぁこれは演出家も何かしらの狙いが有るのでしょう。第2話以降を、観察するのでございます。
役者が「舞台」を演じる時、役者はその演目のほぼ全体像を想像できております。稽古中から何度も同じシーンを繰り返しますし、通し稽古という本番と同じ流れのリハーサルもございます。他の役者のシーンを見ることも多く、どんな劇のどんな役として自分がキャスティングされているのか、そういった客観的な認識を強く持っております。
これがですねぇ、「ドラマ」の収録となると、全然違う。ロケ地やキャストのスケジュールなどの都合で、ストーリーの流れに関係なく、都合のいいシーンから撮影していく。ドラマの始まりのシーンの撮影の直後に、ラストのシーンの撮影なんてのもよく有る話。
さらに、自分の出演シーンの撮影にしか呼ばれませんので、他の人がどんな収録をしているかを見る機会がほとんど無い。絡むシーンがないと、クランクアップまで一度も会わずに終わるキャストがいたりもするのでございます。
さらに輪をかけて、ドラマには「編集」という行程がございます。編集を経て初めて、ドラマは「完成型」に至るわけでございます。こんなようなもろもろの理由が有りまして、実は、ドラマのキャストは、自分が演じているドラマがどんな感じに仕上がるかということを全く分からないまま、演じているのでございます。
でも、全員が完成型の分からぬまま進めていたら、大迷走いたしますよね。ですので、演出家がその完成型を頭の中に持っているわけでございます。そう、ドラマを制作しているとき、その完成型を分かっているのは演出家だけ。キャストは、全体像の見えぬまま、演出家の指示に従って撮影しているのでございます。
この様にキャストからは全体像の見えにくいドラマ撮影ではございますが、これに反して、「撮影中、スタッフとキャストが”共通感覚”で通じ合い、一丸となって撮影しているのだろうな」と思わせるドラマもございます。それが、阿部サダヲ主演の「下剋上受験」。このドラマのスタッフは、ある意味「確信」を持って撮影をしている感じがいたします。
現場の方々はみんなプロで、それぞれが「どうすれば良いものを作れるか」というのを知っております。そのような人達が、「このドラマはこんな感じで仕上がっていくのだろうな」という共通感覚を持っておりますと、放っておいても自然にその方向へ固まっていく。そんなスタッフ&キャストの一致団結感を強く感じるのが、この「下剋上受験」というドラマでございます。
これは、阿部サダヲさんと子供との相性が鉄板だからでしょうね。実に安定している。こういう安定感のある人が主演に来ると、脇役も頑張っていい演技をしようとしてくれる。派手さはないけれど良質のドラマが出来るよく有るパターンでございます。昨年、黒木華さん主演の「重版出来!」というドラマがございましたが、あれも同様でございます。脇役が頑張りたくなる主演役者というのが、有るのでございます。
さて、もうひとつ、全体像が見えないまま、役者全員がピリピリしながら撮影しているドラマがございます。「カルテット」でございます。主演は、松たか子、満島ひかり、高橋一生、松田龍平の4人。この4人が、まるで精密機械の歯車のような緻密な演技で絡み合っております。
役者というのは、役をもらい台本を読むと、その役の人の「人生」を頭の中で作り込みます。どんな幼少期を送ったのか。家庭環境は? 歩き方は? 口癖は? 手の癖は? 好きな持ち物は? 拘りとかは? この様なことを台本の中からヒントを拾い上げ、自分でキャラ設定を作り込んでいくのでございます。
「カルテット」の登場人物の4人は、まさに4人ともが真摯に自分のキャラ設定に取り組んでいるのがよく分かるのでございます。実に、実に、緻密に組み上げられた脚本でございますから、その精密な歯車のひとつを演じきらないと、他の歯車と噛み合わなくなる。演技の好きな人達が、真剣に演技に取り組んでいるピリピリするようなドラマでございます。
かつて「White Christmas」という曲は、カラオケで選曲しても画面に歌詞が表示されず、「作詞家の都合によりウンヌン〜」という文字が表示されておりました。一説には、作詞家のアーヴィング・バーリンが他言語に翻訳されるのを嫌い、英語以外の歌詞で歌うことを禁止してしまったからとか。最近は表示されているようですので、解決が図られたのだと思います。
さて、似たような事件が、日本でも起きましたよ。「森のくまさん事件」でございます。童謡「森のくまさん」の歌詞をネタにしたCDの発売で、揉めております。経緯は、CD制作側が「歌詞に加筆したい」と申し出、作詞家が拒否。しかしなぜかCDが発売されてしまい、作詞家が慰謝料の請求と相成ったわけでございます。
今回の場合はパクリ疑惑ではなく、「ヘンテコな歌詞を付けられて、作詞家の人格を汚(けが)された!」という「人格権」での訴訟。同様の争いは森進一さんなどでも起きております。歌詞に手を加えるってのは、非常にリスキーなのでございます。
キャラクター商品では、著作権に非常にうるさいのが「ディズニー」と「スヌーピー」。ネズミ王国の方は筋さえ通せばかなり自由に使えるようですが、筋金入りで厳しいのが犬小屋の上で寝ている方。原画に手を加えることを認めてないので、利用する場合は「アリモノ」つまり既に出回っている物から使うことになり、独自企画は一切認めない方針だそうでございます。
逆に、むちゃくちゃ緩いのがキティーちゃん。自由にアレンジや独自企画を認めちゃってる。観光地に行けば、その土地の名物で着飾ったキティーちゃんに必ず出会える。かなり原形をとどめていなくても、大丈夫。輪郭を取っ払って、おヒゲと目しか残っていないキティーちゃんなんてのを目撃したこともございます。
改変を認めないという姿勢は、オリジナルのイメージを厳格に守るという目的がございます。一方、広くアレンジを認めるという姿勢は、普及を目指しております。どちらを取るかは、作者次第。どこまで認めるかも、作者次第。要は、わが子を自分の手元に置いておきたいか、世に放って一人歩きさせたいか、ということなのでございます。
最近は、童謡や定番の昔話を知らない子供が増えているそうでございます。親が子供に聞かせたり話したりしないのかも知れません。その親も、すでにゲームで育った世代に入っておりますから、この問題は思った以上に根が深いのかもしれません。
そこでですね、冒頭の「森のくまさん」のお話ですが、たとえお笑いであろうとも、それがきっかけで子供達が歌に触れるというのは、いい事だと思うのでございます。まぁ、どんな替え歌か聞いておりませんので、ひょっとしたら子供に聞かせられないような歌かも知れませんけどね。
子供の時にパロディーに出会い、成長してから原曲を知る、そんな出会い方も良いと思うのでございます。重要なのは、子供のときに多くの新しいものに触れさせてやるということ。新しいものに出会ったとき、子供と大人は全く違った受け取り方をするからでございます。
ですので、引き出しを作るのなら、子供の時に出来るだけ多くの引き出しを作っておいた方がいいというお話になるのでございます。どんな形であれ、子供の時に色々なものを見せたり聞かせたりするのがいい。その数だけ、子供の中には引き出しが増えていく。
パーマ大佐 - 「森のくまさん」 ショートver. https://youtu.be/tbmhHiLDlps
フム、フム、なかなかよく出来ているのでございます。まぁ、ところどころに森のくまさん原曲を「そのまま」使っておりますので、これは作詞家の承諾が必要なレベル。「こんな使い方をするな!」と言われてしまえば、引き下がるを得ないレベルなのでございます。
『ねほりんぱほりん人間予報』 https://youtu.be/2LY7b400X9M
ヤン坊マー坊天気予報 https://youtu.be/prYYW1ZuXAk
この手のパクリには「定石」がございます。まず、リズムとコード進行はそっくりパクる。この2つは、著作権問題で争われることは全くございません。なぜなら、リズムやコード進行には「定番」というものがございまして、多くのものが似たり寄ったりだからでございます。
そして、メロディーのパクリにもひと工夫が必要。基本的なメロディーラインはなぞりつつ、ところどころ、上行と下行を入れ替える。これで、原曲の雰囲気をがっつり身にまといながら明らかに違う曲に聞こえるパクリ曲の完成でございます。
この手のパクリ曲は、ドラマのBGMなどでは結構使われております。原曲を知っていると、思わずニヤリとしてしまうのでございます。森のくまさんの替え歌でも、この手のパクリ方をすれば多分全然問題がなかったはず。しかし、そうすると、パロディーとしてのインパクトがほとんど無くなってしまうかもしれない。う〜ん、難しいところでございますね。
トランプ大統領、就任。就任式の最中に大暴動が起きるというのも、なかなか見られない。楽しんじゃいけませんが、面白い就任式でございました。過激なことを言う大統領ではございますが、世の中の仕組みというのはそう簡単に急変はさせられません。国家という大きな組織であれば、なおさら時間はかかる。性急な大統領が任期中に短気を起こして、なにやらやらかしてしまうような気がいたしますけどねぇ。アメリカでは珍しい、任期途中の何らかの解任劇が起こりそうな予感もしております。
小田原市役所の生活保護担当の職員が、「保護なめんな」ジャンパーを着ていて、話題になっております。この件で検索すると、「ジャンパー」なのか「ジャンバー」なのかって話題の方が上位に来ていて、これもまた大笑い。受給を打ち切られて傷害事件にまで発展した例もございますから、職員の方も大変なのですよね。しかも、不正受給者の数が近年最高というニュースも報道されております。「生活保護者だから批判してはいけない」という風潮がどこかにあるとしたら、残念なのでございます。
アパホテルに、南京事件に関する書物が置いてあったということで、世界的に炎上騒ぎに。南京に関しては、今のところは中国のロビー活動の大勝利中。戦闘中であったので何かしらの略奪や殺害は有ったでしょうが、それは日本側は認めている。問題にしているのは「30万人」という数字。これが世界的に伝わっていない。日本も世界中の新聞に、意見広告くらいだしてもいいと思いますよ。
母親が亡くなった後、その母親が住んでいた東区の実家を半年ほど放置しちゃいまして、どうにも扱いに困り、家賃を精算し、家財道具も全部業者に頼んで処分してもらうということがございました。家財道具とか、どうでもよかったんでしょうねぇ、その頃は。ただ、ワタクシの多くの蔵書もその時に処分しちゃいまして、今思えば、ちょっと残念。
「あの本、どこにあるかなぁ」なんてふと思い出して、「そうそう、あのタイミングでなくしたんだ」と気づく事もしばしば。どこかのタイミングで、蔵書だけでもワタクシのお部屋の方に引き揚げておけば良かったんですけどね。
不思議なのは、大量のレコードとレーザーディスクが、ワタクシの手元にあること。まとめて運ぶとなると、ちょっと大荷物な量。何度かに分けて小まめに運んだのかも知れません。レーザーディスクのプレーヤーは持っておりますが、レコードプレーヤーは実家を精算したときに失っております。プレーヤーの無いまま、レコードは押し入れの中でホコリを被っております。
そのレコードが、今、秘かに人気を高めているそうでございます。「裏返す」という”儀式”やジャケットの芸術性に心躍るのでしょうか? また、CDに比べると、音が「丸く」感じられるという声が多いのでございます。CDしか知らない世代には、それが斬新なのかもしれません。
デジタルとアナログの違いというのは、よく論じられることでございます。まぁ、それに関連するのでございますが、レコードというのはモーターで回して物理的に音を拾っている関係上、回転むらなどの「気まぐれ要素」が入り込むのでございますよね。その、ほとんど関知できないような、わずかな「ゆらぎ」が、心地好く丸く感じられるのかも知れません。
「横綱 稀勢の里」が誕生するようでございますね。優勝した瞬間に、その話が持ち上がっておりましたから、早いと言えば早い。今までさんざん慎重に審議してきたのは何だったんだという、疑問の声も出たりしております。
琴奨菊の優勝が、ちょうど一年前。優勝はしたものの、その後、振るいませんでしたからねぇ。一方稀勢の里は、優勝こそ逃すことが多かったのですが、コンスタントに12勝程度を続けております。野球で言えば、首位打者は取れないけど3割は常にキープしているって感じでしょうか。
あと、星取り表を見返して思いましたが、とにかく稀勢の里は休まない。他の横綱・大関がちょこちょこ休場しているのに対し、稀勢の里の星取り表には、お休みに「や」の字が全く無い。調べますと、今までに休んだのは1日だけとのこと。星取り表の上では「不戦敗」扱いですので、実際に「や」の字がつく休場は、1回もないそうでございます。
これで連想されるのが、「イチロー」でございますね。彼も故障知らず。小さな怪我はしているのでしょうが、大きく休み混むというのは、あまり記憶が無い。普段の準備のたまものなのでしょう。そう考えると、稀勢の里の日々の稽古などの行いにも、イチローと通ずるものが有るのかもと想像するのでございます。
イチローは、年齢的なものも有り成績こそ人並みになってしまいましたが、メジャーリーグチームの多くが、彼を欲しがっております。イチローのストイックさというか野球に対する「真摯な姿勢」が、大きな魅力なのだそうでございます。「イチローがいるだけで、チームの雰囲気が変わる」という、数字的な成績以上の効用が、イチローには有るのでございましょう。
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本日の『クローズアップ現代』のテーマが、「過剰サービス」でございました。日本の「おもてなし過剰サービス」を見直そうというお話でございました。たとえば、伊勢丹が今年は年始を休業にした。その結果、従業員はゆっくり休め、にも関わらず、売上は前年と同じ。ならば、元旦から営業する必要があるのか? 過剰サービスが当たり前になるにつれて、それに従事する人の負担が大きくなっていることへの問題提起でございました。
24時間営業や年中無休が必ずしも必要なのか? 機械や自動機で済まされることを、「笑顔」に拘り過ぎて人間がやっていないか? お客さまを「神様」と崇めすぎるあまり、必要以上に仕事を引き受けすぎていないか? 衛生上それほど問題が無いにも関わらず、何万個という商品を回収・廃棄していないか?
最後の「異物混入」に関しては、細かいガイドラインを作っている企業もあるそうでございます。常にネットを精査し、異物の報告があれば丁寧に利用者と話し合いをし、ガイドラインにそって不必要な回収・廃棄を避ける。そういった企業も有るようでございます。
さて、本日、同時に舞い込んできたニュースがございます。名古屋の名菓、納屋橋饅頭の本店が休業に入るそうでございます。のれん分けした支店の方は影響ないようですので、納屋橋饅頭が無くなるわけではないようでございます。2007年の餡の再利用事件後から取引先が細り、休業にまで追い詰められたそうでございます。
え〜と、ここで「名古屋薫のこんな仕事してたよのコ〜ナ〜」。ワタクシは高校を卒業した後、名古屋市内のあんこ工場で働いておりました。ワタクシ、当時は音大を目指す受験生でございました。昼間は出来るだけ”音を出す練習”に当てたいのでございます。そこで、早朝から仕込みが始まりお昼には仕事が終わるあんこ工場は、ワタクシの練習スケジュールにピッタリだったのでございます。
その工場で、ほぼ毎日のように行われていたのが、カチカチになった餡を新しい材料を煮ている釜に混ぜて練り合わせること。作りすぎて冷蔵庫・冷凍庫で眠っていたものや、前日の余りとかでございます。糖度が高い物は、そう簡単に腐ったりしない。さらに、大きな蒸気釜でグツグツ煮るわけで、衛生的には何ら問題がないとワタクシは思っております。
2007年に、納屋橋饅頭の本店が、この餡の再利用を咎められて、問題になったのでございます。この場合は、商品となった饅頭から餡だけを抜き取って再利用したそうですので、ワタクシの体験とはちょっと条件が違うかも知れません。ただ、餡の再利用そのものは厨房でよくやっていたでしょうから、「これも大丈夫」くらいに気軽に考えてしまったのかもしれません。
あと、赤福なんてのも有りましたねぇ。あちらは、不祥事の後、かえって売上が伸びたなんてお話も聞いております。ペヤングにも有りました。赤福、ペヤングに共通するのは、どちらも大金を投じて設備を刷新したこと。赤福やペヤングが刷新したのは、設備ではなく「イメージ」だったのかもしれませんねぇ。
食品には、異物混入はある程度仕方が無いのでございます。それが、「絶対に入っちゃいけない物」の場合もあれば、「衛生的に問題ない物」もございます。今は、少しでも異物が入っていると、その内容に関わらず何万個という回収騒ぎになる。そして、企業の存亡に関わる大事件にまで発展することもある。食品企業は、ビクビクしているのでございます。
今日は、いろいろお休みが重なりまして、2人の出勤でございました。以前は、事前に出勤調整をして、極端に人数の少ない日を作らないようにしておりましたが、最近は「無調整」でやっております(笑)。お店の体裁とかお客さまに申し訳ないとか様々な思いがよぎりますが、経営者としてこういうことも「受け入れて」いかなければいけないんだと思いまして、なすがままの無調整にしております。
昨日は過剰サービスのお話をしまして、当店の年中無休と話が矛盾するんじゃないかと言われそうですが、まぁ、年中無休なのはワタクシ一人でございまして、コンパニオンはいたってマイペースで行動しております。ご安心下さいませ。長くやっていると、「足元を見る」ことよりも、「遠くを見て」コンスタントに続けることの重要性が分かってまいります。若い頃は「全力疾走で今を生きる」でしたが、今は「ウォーキング程度の速さでノンビリ休まずに歩く」に変わってきております。
ワタクシはいままでの人生の中で、「ことさら本を読みまくった時期」というのがございます。高校生から二十歳くらいにかけてでございます。その時期は、レコードも買いあさっておりました。本とレコードを扱っているお店でアルバイトをしていたというのが、大きな追い風になっていたのでございましょう。
同様に、「ことさら映画を見まくった時期」というのもございます。これは、30歳前後の東京で働いていた頃。東京ってのは便利な街で、週末は朝まで夜通し映画を上映しておりました。当時働いていた風俗店が、土曜日はちょっと早めに終わるとうシステム。土曜日はそのまま歌舞伎町まで繰り出しまして、軽く食事を取った後、映画館をハシゴ。うまく時間が合えば映画を2本見られる。見終わると、朝の6時くらいだったでしょうか。
さて、話は現代に戻りますよ。今日は、そんな映画三昧の日々をちょっと思い出すような映画鑑賞の日でございました。営業終了後、録画していた「耳をすませば」を鑑賞。ワタクシはこの映画、初見。挿入歌には興味がありCDも買っているけれど、映画は見に行かなかった。今までにテレビで何度か放送されているはずですが、それも見てない。なぜか今まで避けておりました。実は、ジブリのこういったホンワカした作品は、ちょっと苦手だったのでございます。
まぁ、その理由は置いときまして、「耳をすませば」を観た後は、映画のハシゴ。レンタルしている「ハドソン川の奇跡」を、やはり自宅のテレビで鑑賞いたしました。今や映画のレンタルも、自宅でクリックひとつで出来てしまう時代。そりゃ、映画館やTSUTAYAが苦しむ時代になるはずでございます。と、こんな感じで、映画三昧の金曜日の深夜でございました。
映画館の深夜興行、今、東京ではどうなのでしょうか? 名古屋でも昔有りましたが、もうね、映画館が可哀想になるくらいに、深夜はお客が入ってなかった。レイトショーは有るようですが、「夜通し」というのは無いようでございます。これをやってくれると、ワタクシなんかはガンガン映画を観に行っちゃうのですけどねぇ。
明治神宮での稀勢の里の土俵入り、ニュース映像で見ておりました。見ていて、思わず口から出てしまった言葉が、「矢場とん」。いやぁ、だめだ、もう、矢場とんにしか見えない。白鵬や日馬富士、あのおもしろ顔の鶴竜の土俵入りでさえ連想しなかったのに、なぜか稀勢の里で連想してしもうた。もうね、これから大相撲で稀勢の里を見る度に、顔がほころんでしまう自分が恐いのでございます。
矢場とんのマスコットと言えば、ブタさん。そのブタさんがらみで思い出されるある番組が、今、ジワジワと話題に上がってきております。先日もチラリと紹介いたしました、Eテレの『ねほりんぱほりん』という番組でございます。
この番組のサブタイトルが、「人形劇赤裸々トークショー」。基本的に「人形劇」なのでございます。ただ、出てくる人が、みんなヤバイ。ヤバそうじゃない人が出てきても、話す内容がヤバかったりする。ゲストの話を聞くのは、山里亮太とYOUさん。ゲストと聞き手の間で、非常に生々しいやり取りが行われるのですが、画面に映っているのは人形劇という体でございます。
聞き手の二人はモグラの人形。ゲストはブタさんの人形というのがお決まりの設定。このブタさんが、毎回、かわいい。さすが人形劇で歴史のあるNHK、人形の作り込みがハンパねぇ。リアルな会話と、それに同期する人形の動作。人形の扱いに関しても、さすがNHKと言わざるを得ない出来でございます。
ゲストは顔出しNGだけど、首から下がチラリと軽く紹介されたりはする。しかし、もちろん会話はゲストが特定されないように進められていく。興味深いのは、かなり突っ込んだきわどい会話が行われているのにも関わらず、画面が実にホンワカしていて緩和されるということでございます。
聞き手の二人も、自分たちが画面に映っていないということもありまして、きわどいダイレクトな質問がどんどん連発される。普通なら、すごく重たい重たい番組のはずなのですが、ブタさんの人形の威力というのは強力でございますねぇ。その重たさが緩和されております。ブタさんを選んだというスタッフのセンスも、秀逸でございますね。
さらに、この番組の評価できるところは「結論を出さない」こと。ゲストとの赤裸々な会話が有っても、「だからどうだ」とか「こうあるべき」といった主張は全く無い。これが実にいい。これこそが、ジャーナリズムのあるべき姿だと思うのでございます。
想像してみて下さいませ。ある立ち入り禁止の堤防で、禁止の柵を乗り越えて入っていき、釣りを楽しむ人達がいる。その人達にカメラとマイクを突きつける報道の人間がいる。想像できましたか? そして、その報道が、裁判官気取りで釣り人を追及する。「ここでは、釣りをしちゃいけないんですよ!」と。
判決を下すのは、ジャーナリズムの仕事ではございません。人間を、人間の心を伝えるのがジャーナリズムの仕事でございます。どうして上段の例の様な場合、「この堤防はそんなに魅力があるのですか?」と切り出さないのだろう。そうやって、相手の心に寄り添ってから本音を聞き出す。それがジャーナリズムのキモではないのですか?
本音を聞き出しても、やはりそれの是非を問うのは、ジャーナリズムの仕事ではない。是非の判断は受け取り手の仕事でございます。いかに掘り下げて真実や本音を引き出すか? そして、勇気を持って、その是非の判断を受け取り手に任せることが出来るか? ここにジャーナリズムの「良識」が有るのでございます。
この勇気が持てないから、ジャーナリストが自分で結論を言ってしまったり、判決を下してしまったりするのでしょうね。最近は芸能人のスキャンダルを暴露するのがジャーナリズムの仕事のような風潮がございます。実に、残念。雑誌の売り上げなども有るのでしょうが、どこか裁判官気取りのジャーナリズムもどきには、ワタクシはその良識を疑うのでございます。
話をNHKに戻しましょうか。最近のNHK、特にEテレは責めまくっております。『バリバラ』という障害者をテーマにした番組も、日テレの24時間テレビを思いっきり批判したりして、責めておりました。あの番組なんかも、人形劇の体にしたら面白そうだなんて思ったのですが、どんなもんでございましょう?
・NHK Eテレ『ねほりんぱほりん』
http://www4.nhk.or.jp/nehorin/
・矢場とん
http://www.yabaton.com
トランプ氏が就任早々大暴れ。アメリカ中というか世界中が振り回されております。大統領制ってのは強権なのですねぇ。大統領の署名ひとつで、いろんな法案が即座に通ってしまう。署名しちゃう大統領も大統領ですが、それをすんなり通してしまうアメリカの仕組みってのも、どうかと思いますよ。
トランプ氏がビジネスマンとして大成功していることは、紛れもない事実でございます。トランプ氏は、非常に強いサイコパス傾向を持っております。経営者には必須の要素でございます。ただね、このサイコパス傾向というのは、ビジネスを成功させる要素でも有りますが、同時に奈落の底に落とす要因にもなり得ます。両刃の剣というやつなのでございます。
そこで、トランプ氏が好調を維持していたという事実のためには、どこかにブレーキ役を買って出る「参謀」が居たはずなのでございます。アドラー言うところの「嫌われる勇気」をあえて持っている人物でございますね。トランプ氏自身が気づいているかどうかは分かりませんが、ビジネスでの成功は、そういった参謀役との二人三脚だった可能性が高いのでございます。
さて、就任直後のご乱心ぶり。その乱心ぶりを見ておりますと、どうも今までの「参謀役」は存在していないのかも。ブレーキが無くなって、タガが外れ、アクセル踏みっぱなしでコンビニに突っ込む高齢者ドライバー状態なのかもと、予想できるのでございます。
もし、トランプ氏がそんな暴走状態であるとするならば、これはお付き合いをするのは、非常に危険。安倍首相が慌てて電話で連絡を取っちゃったみたいですが、もうね、放っときゃいいんですよ、ご乱心老人は。ちょっとシカトして、相手を焦らすぐらいでちょうどいい。ヘラヘラと尻尾を振って近づいちゃいけないのでございます。
ただね、ここで、もうひとつ、深読みをしちゃうのでございます。トランプ氏のこのご乱心振りが、全部ブラフ(はったり)の可能性もある。参謀がいなくて暴走しているように見えて、実は、全て、参謀の描いた筋書き通りという可能性も有るから、油断できない。まぁ、どちらにせよ、こちらから慌てて近づくというのは、あまり得策では無いような気がいたします。
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店番をしている最中は、テレビの音声を消して画面だけ表示させていることが多いのでございます。夕方、チラリと見たテレビ画面に、時天空の顔写真が写っておりました。引退してからは、間垣親方として頑張っておられました。
ちょうど一年前に悪性リンパ腫であることが発覚し、治療のために休場を重ねていた時天空。もう一度土俵へ戻りたいと願いつつも、休場のために番付は下がり続け、しかも抗がん剤の治療のために髷(まげ)も失い、病室でひそやかに断髪式を行うということもございました。
体力の衰えはどうにもならず、引退を決意。引退後は、治療の傍ら、大相撲の解説や会場スタッフとして活動されておりました。テレビ画面に写る顔を見て、「だいぶ回復されたのかな?」とも思っておりましたが、病状は治まることなく進行し続け、本日、亡くなられたそうでございます。37歳だったそうでございます。ご冥福を、お祈りいたします。
各ニュース報道では、「37歳の若さで…」という語句で切り出しておりました。そういえば、読売ジャイアンツのコーチ「木村拓也」さんが、くも膜下出血で亡くなられたのも、37歳。さらに、37歳という年齢は、ワタクシには個人的に思い出ある年齢でございます。
ワタクシがまだアラフォーの頃、ある年下のニューハーフの友人がございました。美形の子で、人気も非常にございました。ただ、その子がマリリン・モンローを崇敬しておりましてねぇ、「私はモンローと同じように37歳で死ぬんだ、きっと」と常々口にするものですから、いつもヒヤヒヤしておりました。まぁ、今現在はとっくに37歳を過ぎておりますが、ピンピンしている様子。取り越し苦労だったようでございます。
ワタクシが37歳の頃はと言えば、歌舞伎町のショーパブで働いておりました。風俗から一度引退し、水商売に専念していた頃でございます。あの頃は、歌えたし、踊れたし、体力もあったし、物覚えも良かった。絶好調の時期でございましたね。人生を左右するような貴重な出会いも多くあった時期でもございます。そう思うと、時天空の37歳というのは、早いですねぇ。ご冥福をお祈りいたします。