店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
本日の新聞には、訃報がふたつほど載っております。ひとつはこの忌野清志郎さんの記事。そしてもうひとつは、長尾靖さんという元毎日新聞の写真記者の訃報記事でございます。この長尾靖さんという方、浅沼委員長暗殺の瞬間を報道し、日本人で初めてピュリツァー賞を受賞したという、すごい人だそうでございます。
このふたつの記事の扱いで、各新聞、なかなか面白かったのでございます。読売新聞はふたつの記事をほぼ同等に扱いながらも、長尾さんの記事には大きな写真を使い、清志郎さんは顔写真のみ。毎日新聞は、この長尾さんが元身内ということもあって、同等ながらも清志郎さんの記事をやや大きく掲載しております。さて、わが地元中日新聞はと申しますと、清志郎さんの記事がカラー写真で大きく掲載され、長尾さんの記事はすみの方に追いやられている始末。
え〜と、先日書きました「愛情飽和度100パーセントの人生」(4/22)の内容に関して、数人の方からご意見を頂きました。ありがとうございます。それで、ちょっと言葉足らずの面もございましたので、本日は、その続編というか、さらに突っ込んだお話を書いちゃうのでございます。ちょっと浮世離れしたお話に感じるかも知れませんけど、おつきあいのほどを。ででん、でん、でん、でん。
ではまず、想像してみて下さいませ。自分の身内でいちばん大切な人が死んでしまったと。では次に、その大切な人の死因が通り魔による無差別殺人だったといたしましょう。どうですか? 悲しいですよね。腹が立ちますよね。犯人が憎らしいですよね。では次に、その大切な人の死因が、空から降ってきた隕石が偶然当たってしまったのだと想像してみて下さい。悲しいけれど、何に向かって腹を立てますか。隕石を憎みますか。隕石に腹を立ててもしょうがないですよね。運命だと思ってあきらめますか。
ここで、考えてみましょう。同じ「身内の死」という出来事なのに、その死因の違いで腹が立ったりあきらめたり。「その犯人さえいなければ」と思うかも知れませんね。では、もしその出来事の直前に、あなたがその身内に電話をしていたら、その身内の運命が変わって犯人と出会わなかったかも知れない。そう、あなたもその身内の運命に荷担しているのです。あるいは、その身内が出かけるときに玄関でつまづいていたら、やはり運命が変わっていたかも知れない。あるいは、あるいは、といった具合に、隕石で死んだのも、通り魔に殺されたのも、どちらも、単なる偶然の産物に過ぎないのでございます。
では、どうして通り魔に殺されたときだけ腹が立つのでしょう。それは、「本当なら、もっと長生きできたはずなのに」という感情ではございませんか。ちょっとエゲツナイ言い方をすると、もっと長生きして有意義な人生を送れたのかも知れないのに「損をした」という感情でございます。これは、その身内が損をしたという「思いやり」の気持ちと同時に、「自分が損をした」という利己的な思いもございますよね。つまり、「損をした、得をした」という感情が、腹を立てさせたり、憎ませたりしているのでございます。
ではでは、損をした人生とか、得をした人生とかって何でしょう。長生きできれば得ですか? 百年以上生きた金さん銀さんに比べれは、ほとんどの人が損をしていますよね。でも、出生直後に死んでしまった赤ん坊に比べれば、はるかに得をしている。結局、損得というのは比較の問題ですから、比較し始めるとこの両極端まで行き着いてしまう。そしてさらに、不幸な長生きと、幸せな短命と、いったいどちらが得でしょう? さぁ、もう比較なんて出来ないことに気がつきますよね。そう、魂だけ抜け出して他人に乗り移るなんて非現実的なことでもしない限り、人生の比較なんて出来ないのでございます。
じゃぁ、死んだ後に天国で反省会でもいたしますか? 天国へ行って、「いやぁ、今回の人生はオネウチな人生でした」とか、「ショボイ人生だったので、さっさと戻ってきちまったよ」とか話し合いますか。でも、現世で稼いだお金は、天国へ持って行けるわけでもございません。地位も名声も、天国では関係ございません。もし死後の世界があるとして、その死後の世界で反省会をやったとしても、現世での損得勘定は、死後の世界では全く無意味なのでございます。
つまりつまり、損とか得とかいうことは、他のものと比較して初めて発生する感覚なのでございます。人生というものが他のものと比較できない以上、損をした人生とか得をした人生とかは有り得ないのでございます。チリメンジャコのような短命の人生も、神社の亀のような長生きも、人生の価値としては全く同じ。その人生がどのような終末を遂げようとも、それは自分をも含んだ万物が影響し合った末での、偶然の結果なのでございます。最初の話に戻りますが、身内の死によって、何かに怒りたい、何かを恨みたいという感情がわき出るのは仕方ございません。しかし、決して損をしたわけではございません。そして、その身内の運命に多少なりとも自分も荷担してきた、その結果の運命なのでございます。そう思えば、すこしは気持ちが救われるのではないでしょうか。
「上原のぞみ」が2号店「シィメイルアネックス」の在籍に変更になりました。予約、接客などは、主に2号店で行うことになります。1号店には、2号店も含め全員の写真が掲示してありますので、1号店に来ていただければ、全員の写真を見ることが出来ます。
1号店のフロントで、ニューハーフ関係の雑誌を販売しております。定期的に問屋が当店の配本分を持ってくるのでございますが、今月は、ちょっと早めに『ニューハーフ白書』の新刊が届いたようでございます。今号から表紙のデザインが大きく変わりまして、最初、違う雑誌かと勘違いするぐらいでございました。
この雑誌、実に第97号ということで、創刊時は季刊誌、後に隔月刊となりましたが、大ざっぱに計算しても16年以上も続いている老舗雑誌でございます。すごいものでございます。最近は写真の多いAVタイアップ雑誌に押され気味な感じでございますが、この不景気の中、健闘しているのでございます。1号店のフロントに用意してございますので、ご来店の際、お買い求め下さいませ。
ベビースターラーメンのとんこつ味、ちょっとおいしいかも。BOSSのSILKY BLACK、これもちょっといける。お店の近くのコンビニは小さいので商品の入れ替わりが激しく、気に入った新商品が出ても、すぐに棚から消えてしまう。う〜ん、買い置きしておくほどでもないしなぁ〜
さて、NHKの番組で『SONGS』という番組がございます。録画しておいて、後からまとめて見たりしております。ちょっと前に放送したスペシャル版で、松田聖子が出演しておりました。どうも松田聖子というとチャラチャラしてイメージがあって、あまり好んで聞くということはなかったのでございますが、何の気なしに見ておりますと、久しぶりに聞く松田聖子、非常に歌が上手くなっていてびっくりしたのでございます。
歌というもの、リズムやノリを優先して歌いますと、正確なビートよりもほんの少し早めにつっこむような歌い方になるものでございます。このようにすると、軽やかな表現になるわけでございまして、ポップスを歌うときの基本でございます。もちろん、若かりし頃の松田聖子も、この基本に忠実に歌っております。一方、詩の美しさや言葉の深い意味を歌い込もうとすると、今度はどうしても正確なビートよりも遅れてしまいます。演歌などの”もたった”感じがその良い例でございます。
まず、草ナギ!、何だ、何だ? 復帰するのはいいとして、共演NGのタレントとか、振ってはいけない話題とか、そんな”お達し’が、事務所から製作側に通知されているそうでございます。もうね、この場におよんで、なにを図々しいことを言っているんざんしょ! なんでも、裸芸人の「小島よしお」や「たむらけんじ」「江頭2:50」などは共演NG。あと、お酒の話題や事件をネタにしたツッコミなども完全NGだそうでございます。
このジャニーズという事務所、どこまで横暴なんざんしょ。番組キャンセルの違約金などを免除してもらい、このような早い復帰をさせてもらいながら、まだ注文つけるざんすか? もう、いい加減にするざんす。身から出たサビと割り切って、ツッコミだろうがカラカイだろうが、甘んじて受けるべきでございます。テレビというのは小さい子供も見ているざんす。悪いことをするとどんな目にあうか、身をもってテレビの前のチビッコに見せるべきでございます。なんか、かつて細木数子が番組を持っていたころ、マスコミ中が細木に気を使い機嫌を取っていたときの、あの”なれあい感”を感じるのでございます。
さて、次の話題。和歌山県のとある湾に、マッコウクジラが迷い込んだとのこと。クジラはかなり弱っているとのことで、その扱いに困っているそうでございます。ワタクシ、調査捕鯨とか調子の良いことを言って何百頭も捕鯨している「ごまかし」に関しては、非常に腹立たしく思っております。捕鯨は日本の文化とか主張していても、そんなゴマカシをしていては、絶対に諸外国に理解は得られないのでございます。調査捕鯨などと言わず、堂々と「我々は捕鯨を強行する!」と言い放つべきでございます。そもそも、別にクジラ以外に食べるものいっぱいあるし。
で、和歌山のクジラの件でございます。あ〜あ、なんでニュースで流しちゃうかなぁ。あんなもの、迷い込んできたら速効で浜辺に引き上げて、解体して食べちゃえばいいのでございます。田舎の浜辺の出来事なんか、誰も気がつかないのでございます。ニュースなんかで取り上げるから、扱いに困ることになるのでございます。
雨。朝、出かけようとして、雨が降っているのに気がつく。空を見上げると、一瞬、「山の匂い」がした。山の中で雨に降られたときのにおいがした。
ちょっと前、すごく暑かった日、街路樹の下を通り過ぎると「木漏れ日」の匂いがした。木漏れ日の匂いは、夏の匂い。
春の到来や秋風にも、春の匂い、秋の匂いがある。季節がほんの少し次の段階へ移行する度に、それぞれに様々な匂いがある。
私はいつも、世の中の移ろいを「匂い」で感じている。
今日は日曜日。昨日からの雨がジトジトと降り続いております。夕方、買い出しに近くの薬局へ。小雨が降っておりましたが、「濡れて行こう」とばかりに、傘も差さずに歩いてとことこと。買い物を済ませると、戦利品は大きなビニール袋ふたつ分。ふと小腹がへり、デニーズで軽食。このファミレスというところは、そこそこの料金を取る割には腹の足しにならない。かといって食べ過ぎれば胃がもたれる。素通りすれば空腹だ。とかくに食事は難しい。なんてぇことを考えながら、買い物袋を両手に下げて、再びとことこと歩いて帰ってまいりました。
ファミレスの愚痴などをこぼしましたが、雨の日のファミレスは好きでございます。あまり混み合っていないということもありますが、ほんの少ししんみりとした店内から、窓の外の雨模様を眺めるのは、なかなかに風情があってよろしいのでございます。雨模様、そして夕方の中途半端な明るさ、その微妙な天気の微妙な時間帯の空気には、独特の遠近感と空気の重たさがございます。