店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
当店の予約の方法が変わりましたので、ご報告いたします。いままで「当日予約」のみでございましたが、会員番号をお持ちの会員様は、「1週間前」から予約できるようにいたしました。たとえば、日曜日の予約でしたら、その1週間前の日曜日の正午の時報から受付しております。遠方からいらっしゃるお客様など、電車の中から苦労して当日の正午に電話を頂いたりしておりましたけど、これからは余裕を持って予約していただけます。なお、当日予約との混乱を避けるため、事前予約では、はっきりと日付を申し出ていただくよう、お願いします。
新聞の記事からの拾い読み。名古屋市で、自分の子供に「玻南(はな)」という名前をつけようとした親が、人名用漢字に「玻」という漢字がないためにそれが受理されず、裁判にまでなっているそうでございます。すでに一年弱に渡って争われている裁判で、この度、名古屋高等裁判所が却下したため、争いは最高裁判所にまでもつれ込みそうな様子でございます。
まず、この両親、旧約聖書からヒントを得て命名したとか言いますが、そもそも旧約聖書って何語で書かれてるのよ。漢字じゃないでしょ。その旧約聖書を日本語に訳したときに、たまたま「玻」という漢字が使われただけ。しかも、漢字は中国から日本に伝わってきたもの。その伝わる過程で意味や字形が変わってしまったものも少なくない。ましてや、日本で生まれた和製漢字なんてのも多い。そこまで考えていくと、「玻」という漢字と旧約聖書とのつながりを考えるというのは、ほとんど意味がないということ。つまり、ちょっとドギツイ言い方をすると、「旧約聖書をヒントにして、こんなオシャレな名前を考えついた私たちって、かっこいい!」という、ご両親自身でさえ気づいていない潜在意識が、この命名の裏側に感じられるのでございます。
世の中にあふれかえる全ての単語には、「他と区別する」という意味合いの「記号性」を持っております。子供を、産まれた順番に「一郎、次郎、三郎…」なんて命名するのは、この単語が持っている「記号性」をメインに使用した例でございます。さらに単語には、その記号性に加えて「概念」を持っております。例えば、「愛」という字には「愛」という記号性に加えまして、「愛すること、愛情」といった概念も含んでおります。本来名前というものは他人と区別するために付けるのでございますから、単語の記号性の部分だけを使えば事足りるのでございます。ところが、この考えを極端に進めてしまうと、囚人をすべて番号で管理する監獄のようになってしまう。住基コードがなかなか浸透しないのも、こういった監獄のイメージがあるからでございます。
で、やはり親というものは子供に健やかに育って欲しいもの。「名は体を表す」なんて言いますが、名前の付け方ひとつで、我が子の将来が決定するやもしれません。いい名前を付けてやりたいと思うのは、親として当然でございます。さぁそこで、どんな名前が子供にとって"本当に"幸せかを考えなくてはいけないのでございます。先ほど申しました「名前が持つ記号性」というもの。最近はこの記号性がコンピュータで処理されることになる。ということは、アウトローな文字はコンピュータ処理の過程で変換されない、あるいは当て字を使われるという可能性が高いのでございます。さらに名前というものは、他人が自分の名前を読んだり書いたりすることも多いということも、これまた重要でございます。自分が使っていて不便な名前というのは、他人にもその不便さを感じさせているということなのでございます。つまり、名前の記号性だけを考えると、「シンプル・イズ・ベスト」ということになるのでございます。
一方、深い概念を持つ「深イイ」名前にしたいと思うのは、親心として当然のこと。しかし、やり過ぎると、非常に扱いに困る命名になってしまったりする。記号性の持つ利便性と親が子供に託す概念との間で、どこかベストな妥協点を見つけてやること、それが、きっと子供にとってはいい名前なのではないでしょうかねぇ。冒頭の裁判で争っているご両親、その名前が気に入っているのなら、別に平仮名で「はな」でもいいじゃない。そして、その名前の持つ本来の漢字と意味を、物心ついた頃に親が教えてやればいいこと。さらに、その子供が大人になったとき、芸名だろうがペンネームだろうが、好きなように「玻南」という名前を使えばいい。芸名なら人名用漢字の制約なんて受けないのでございます。小さな赤ん坊に、その子を一生左右する様な重たい名前を付けたがるのは、親のエゴでございます。
さて、ドギツイことをいろいろ書きましたが、もし関係者の方が読んでいらっしゃったなら、ごめんなさい。親が子供に託す気持ちはよく分かるのですが、戸籍のないまま成長していく子供もまた不憫なのでございます。命名に関する法律や人名用漢字というものは見直され、改正されていく方向にあります。また、最近では改名というのはかなり簡単にできる手続きでございます。最高裁まで争う意味があるかどうか、ちょっと考えてしまったのでございます。
名前に関しては、子供の頃ひどく感銘を受けた言葉がございます。故岡本太郎さんの言葉でございます。岡本太郎さんの言葉といえば、「芸術は爆発だ」というのが有名でございますが、ワタクシが聞いたのは「空を飛ぶ鳥に名前がありますか? 野に咲く花に名前がありますか? 名前なんてばからしい」という言葉。何かのバラエティー番組に出ていて「岡本太郎」という名前に関して質問を受けたときに、岡本太郎さんが、なかば怒りながら答えた言葉でございます。このやりとりを聞いて、多くの人は「単なる岡本太郎の奇行」と考えたことでございましょう。しかし、この言葉は「全ての物質から名前という記号性を取り払って、その概念そのものを注目せよ」という意味だと、ワタクシは解釈しております。「名前や肩書きや世間体、社会的価値、既成概念、そういったものにこだわらないように生きていこう」というワタクシの考え方は、岡本太郎さんから頂いております。
松本ゆかりとワタクシとは、もう10年以上にもわたるおつきあいでございます。最初の出会いは、東京の歌舞伎町のショーパブでございました。ゆかりはその店の超ベテラン、ワタクシはペーペーの新人でございました。まだ名古屋弁の抜けきらないワタクシの話し方を、ゆかりにさんざんバカにされたものでございます。同じ名古屋出身というのを後から知ったときには、「コンチクショー」って思ったものでございました。
本日の朝は、撮影スタジオへ出向きまして、宮里裕香の写真を撮って参りました。ヘアメイクさんがいるスタジオでございまして、フルメイク・ヘアーセットまで全部やってもらっての、写真撮影でございます。さっそく、宮里裕香の写真を更新しておきましたので、ごらんになってくださいませ。
風俗店の写真にもトレンドみたいなものがございまして、かつてはスタジオで撮影したキンキンに明るい写真が風俗写真のテンプレートでございました。写真を白っぽく焼くことを「白飛ばし」あるいは「飛ばす」なんて申しまして、今でも、風俗雑誌の広告は、飛ばしまくりの真っ白な写真が定番でございます。フィルムがメインだった時代には、この「飛ばす」という技術、やはり、大型ストロボを使用出来る撮影スタジオならではのお家芸で、風俗嬢の写真は、もっぱら撮影スタジオで撮るのが当たり前でございました。
さて月日は流れ、世の中はデジタル時代に。フィルムもデジタルデータに置き換わり、携帯電話にもカメラが搭載される時代がまいります。風俗店がホームページを持つのは当たり前になり、風俗嬢などもブログなんてぇものを始めたりいたします。そのブログなどでメインとなる写真は、いわゆる「写メ」というやつ、携帯電話で気軽に撮影した写真でございます。風俗嬢が独自のブログなどでオープンしたり、または最初から写メをメインに使う風俗店のホームページなどもございます。
写メの利点は、「信憑性」でございます。キンキンに飛ばした写真に比べれば、写メというのは実に現実味があるのでございます。かつて、この現実味のある写真の代名詞として「ポラロイドカメラ」というものがございました。で、ここでなぜ「信憑性」が重要になってくるかと申しますと、写真には「修正」というごまかしの技術があるからでございます。「飛ばす」という技術も、一種の良心的ごまかし。写真がデジタルデータになってからは、骨格を変えたり目鼻の位置を移動したりなんてのは、ソフトさえあれば朝飯前。世の中に修正写真が横行しているからこそ、写メのような信憑性のある写真が重宝されたりするのでございます。
朝、近くの定食屋で朝ご飯でも食べようと思いフラリと外へ。道すがら、「そうそう、粗塩が切れていた」なんて思い出しましたので、ちょっと遠回りをして八百屋の方へ。ズッシリとした粗塩の袋を持ちながら店内を物色しておりますと、あら、まぁ、どうでしょう! なんともまぁ見事なストロゥベェリーが! あまりにも美味しそうだったので、つい値段も聞かずに購入。値段を聞いてびっくり。一皿800円。でも、もうワタクシの中で「食べる」と決めておりましたし、八百屋のお父さんの笑顔があまりにもステキだったので、そのまま購入。本日の朝ご飯はストロゥベェリー。定食屋のブゥレィックファ〜ストはキャンセルでございます。
この北野武という方、役者としては実に不思議な方でございます。特に滑舌(かつぜつ)が良い方ではない、というか、むしろあまり良くない。そして、卓越した演技力を保持しているわけでもない。けれども、その演技には妙に心惹(ひ)かれるものがあるのでございます。役者としての力量というよりは、北野武自身の人間性の魅力ゆえのなせる技ではないでしょうか。
北野武の演技の特徴は、「脱力」でございます。余分な力が一切入らない「自然体」なのでございます。普通、演技しようとすると、両手のやり場に困ったりするものでございます。その“手持ちぶさた”感を解消するために、小道具を持ってみたり、ポケットに手を突っ込んだり、とまぁ役者というのはいろいろ工夫したりいたします。けれども、北野武の演技は、基本的に両腕は脱力状態。まるで矢吹丈のノーガード戦法のように、ダランと垂れ下がっております。また、北野武さんが監督をした作品でも、その「自然体」が浸透しておりまして、“演技”、“あざとさ”といったものを極力排除した空気が、映画全般を包み込んでおります。
さて、この「自然体」というやつ、やってみようとすると意外と大変。試しに、「何も考えていない状態」というのを維持してご覧なさい。何も考えないようにしていても、ふと、「あ、今、何も考えていないな」と思った瞬間に、「今、何も考えていないな」という“考え”をしていることになるのでございます。そう、何も考えないというのは、全てのものから自分を“解放”してやる「無の境地」のこと。「脱力」「自然体」「解放」というのは、みんな「無」につながるのでございます。
では、そんな状態で、どうやって台本通りのセリフや動きをやれるのか。それは、役者さんは「覚えたセリフや動きを、一度忘れてしまう」という作業をするからでございます。稽古を重ねることで、動きやセリフなどの段取り的なことは、脳の中の「無意識の領域」に押しやるのでございます。無意識で動けるからこそ、台本を覚えていなくても間違いなく動ける。それが、「忘れる」という作業。優秀な役者さんは、この「忘れる」という作業を必ず行います。むしろ、何回でも自然なリアクションをするためには、この忘れるという作業は、演技の上では必要不可欠な要素なのでございます。
もう毎日お店に張りついておりますので、ワタクシには「お休み」というものがございません。そこで、暇なタイミングを見計らって、みずき店長とスタッフに任せ、ときどき外出させてもらったりしております。本日は、ちょっと時間をいただきまして、映画『沈まぬ太陽』を観てまいりました。実は今年の春に大阪へ出向いたとき、新大阪の駅でたまたまこの映画のロケ現場に居合わせました。そのときのシーンを確認したいという気持ちもありまして、わざわざ観に行ったというようなこともあるのでございます。ストーリーを書いてしまうような興ざめなことはいたしませんので、まだ映画を観ていらっしゃらない方も、安心してお読みくださいませ。
この映画、3時間22分という長尺でございまして、途中で10分間の休憩が入ります。長尺ではありますが、けっして退屈したりはいたしません。主人公のモデルは小倉寛太郎(おぐらひろたろう)という実在の人物。山崎豊子による原作がこれまた周到な事前取材を経た上で書かれており、小倉寛太郎氏の著作物などとも合致することを考えると、この映画のストーリーのようなことは、たぶん実際に起きていたのだろうと想像できるのでございます。
ところが、この映画のもう一つの主役である「○○航空」は、まったくこの映画に協力しておりません。事実無根なストーリーだと抗議し、協力どころか名誉棄損も辞さぬ勢いでございます。もうね、潰れかけている会社がまだそんなことを言っているのかと呆れてしまうのでございます。海の向こうアメリカでは、公的支援の是非を問う公聴会にジェット機で出向いた自動車3バカ社長がおりましたが、まさにそれと同じ。こんな○○航空を救うために貴重な税金が使われるのかと思うと、腹立たしくもなるのでございます。
閑話休題、今回お話ししたかったことは、そんなバカ航空の話ではございません。この作品のモデルとなった小倉寛太郎という人物の妙な魅力について、お話ししたかったのでございます。この小倉寛太郎氏、バカ航空との闘争の物語でも執筆しているかと思いきや、著書はアフリカのお話ばかり。動物の写真集なども出しております。一企業との闘争なんて小さなことには目もくれず、晩年の関心は大自然の摂理にあったようでございます。そんな小倉氏の生き様に相対(あいたい)すればするほど、既得権益に固執する一企業の卑(さも)しさが、浮き彫りにされるのでございます。
ちょっとインターバルが開いてしまいましたね。ちょうど『シーメール白書』のコラムの執筆などありましてバタバタしておりましたら、すっかり間が開いてしまいました。どうも、ふたつ以上のことを同時にやるというのが苦手で、外出したときも荷物をふたつ以上持つと、かならずその内のひとつをどこかに忘れてきてしまうということもあったりいたします。
大相撲の九州場所が始まっておりますが、ワタクシ、この大相撲中継の音声を聞いていると、なぜか妙に懐かしい感覚に陥り、そして非常に眠たくなってくるのでございます。大相撲中継の音声をを聞きながらウトウトしているときなんてぇのは、「もう、このまま死んじゃってもいい!」って思えるほど気持ちがいいのでございます。これはきっと、小さいころ昼寝をするときに親がいつも相撲中継を見ていたか、はたまた、相撲中継の音声の中に、ワタクシを眠りに誘う秘密の周波数があるのか? そうそう、赤ん坊は「ザ〜」というホワイトノイズの音を聞かせると寝付きが良くなるとのこと。なんでも、赤ん坊が母親の胎内で聞いていた音が、ホワイトノイズに近いそうでございます。ということは、ワタクシの感性は“赤ん坊なみ”っちゅうことでしょうか。まぁ、大相撲中継の音声を聞いてワタクシが懐かしい気分になるということは、それだけ大相撲中継の音声の雰囲気が変わっていないということでもございます。
某国営放送(NHK)には、大相撲中継の他にも、昔からあまり変化のない長寿番組がございます。大晦日の「紅白歌合戦」でございます。その出演者が本日発表されたそうでございます。この番組、数年前に視聴率が非常に低迷いたしまして、いろいろテコ入れをやったあげく、少しずつ盛り返してきております。でも何でしょうねぇ、NHKの他の音楽番組には秀逸なものが多いのに、この紅白歌合戦だけは何か因習のようなものを引きずっていて、根本的なところで大改革をやり損ねておりますよね。NHKの資本力をもってすれば、もっとすごい音楽番組が出来るはずなのに、でございます。大相撲でもそうでございますが、なまじっか“伝統”があるものってのは、その伝統が改革の邪魔をするのでしょうね。
もう、「生放送」にこだわらなくてもいいと思いますよ。あれだけの出演者が入れ代わり立ち代わり出演するとなると、どうしても舞台上で組めるセットというものに制約が生じてまいります。また、生舞台・生放送ということで、ポストプロダクション(映像収録後に行うエフェクトなどの処理)もほとんどできません。そして秒単位で管理する番組の流れが、どこか「せせこましさ」を与えてしまっております。同じNHKの『SONGS』なんて音楽番組では、大がかりなセットを組んで実に独創的そしてダイナミックな表現をしております。どうも紅白歌合戦は、録画技術が生まれる前の骨董的伝統に縛られているのではないでしょうかねぇ。今までのどこかの時期に、「録画にしましょうよ」って言い出した人がひとりぐらいいたような気もするのでございますが、そんな革命家の提案よりも、長らく続いた伝統の重さが勝ってしまうことは、容易に想像できるのでございます。
出演者の選定にも「アレッ」って思うことは有りますが、その出演者が歌う曲目の選び方にも、芸がないですよね。せっかくの大晦日という特別な日の特別な時間の娯楽なのに、その娯楽番組の内容は「ありきたり」をただ集めて、せわしなく次から次へと流すだけ。ここはいっそ、普段見られないものを見たいですよね。そして、普段聞けないものを聞きたいですよね。他人の歌をカバーしたり、普段歌わないジャンルを歌ってみるとか。演歌歌手ってのは歌詞を大事にしますので、バラードなどを歌わせると意外にもムチャクチャうまいですよ。また、大勢でミュージカル仕立ての演出なんてのもいいですよね。なんてことを書いていてふと思いつきました。そう、そうですよ、あのフジテレビの『新春かくしげい大会』の趣向を、そのまま使っちゃうのでございます。あの「非日常感」というのが、紅白歌合戦には少ないのでございます。
先日、雑誌『シーメール白書』が休刊になってしまうと書きましたが、そのシーメール白書のコラムのひとつを、ワタクシが執筆しております。本日、最後の号となるVol101用の原稿を入稿したところでございます。このコラムには、毎号ワタクシの写真も掲載されておりまして、実はその写真、毎回ワタクシが店内で自分で撮影しております。
本日も、お店のフロントに座りまして、カメラを自分に向けて“自分撮り”。そのデータを現像ソフトで雑誌用の大きさのモノクロ画像として書き出しまして、メールに添付して編集部へ送る。とまぁ、これでワタクシの『シーメール白書』への最後のお仕事が完了してしまったのでございます。この雑誌には、8年間にわたってコラムを書かせていただきました。書いているときは、「面白くないから打ち切り!」なんてことを急に言われるのではないかとビクビクしておりましたが、雑誌の方が先に休刊になってしまうというのは、残念なことでございます。
で、そのモノクロの画像データ、たまたまプリンタの写真用紙のハギレが余っておりましたので、チョチョイチョイとプリントしたのでございます。まぁ、気分は浅草マルベル堂! カッチョいいブロマイドを作って自慢のひとつでもしてやろうかと思ったのでございます。ところがところが、どこで設定を間違ったのか、プリントアウトしたものを見てみると、妙に白っぽいできあがり。しかもチョット色が付いている。
たま〜にインターバルを作ってしまうこの「ひとりごと」欄でございますが、始めてから何とか1年半、続けてきております。ワタクシが文章を書く欄としては、この「ひとりごと」欄と10年程続けておりますメールマガジン「名古屋薫のShe-Mail」がございます。この「ひとりごと」欄は、風俗店のサイトの一部なので、業務連絡の場合もございますし、未成年には読ませられないような内容の日もございます。その中で、「まぁ、メールマガジンとして配信しても大丈夫だろう」といった内容のものは、多少の加筆訂正を加えまして、メールマガジンとして配信したりしております。
ただ、最近の“猫も杓子もすなるブログ”という風潮を考えますに、ワタクシもやはり「ブログ」という形を取った方がいいのかな、なんて考えておりました。そこで、新規にブログを立ち上げまして、ただ今10年分のメールマガジンのアーカイブを、そのブログにコピーをしているところでございます。それが済みましたら、こんどは、この「ひとりごと」欄の内容でブログに上げられるようなものをチョイスしていきまして、やはりブログの中に取り込みたいと思っております。
つまり、この度、立ち上げた新しいブログを、ワタクシの書いた文章を取りまとめる総合アーカイブにしようと思っております。もちろん、この「ひとりごと」欄が無くなるわけではありませんし、メールマガジンの方も続けていくつもりでございます。ということで、よろしければ、ブログの方ものぞいてみて下さいませ。ただ、メールマガジンと「ひとりごと」欄を合わせますと、膨大な記事の数になりますので、すべての記事をブログの方へコピーし終わるのは、ちょっとかかると思います。ということで、ブログのお知らせでした。
科学雑誌を時々購入いたします。興味のある内容だったりすると、ついつい購入しちゃったりするわけでございます。『Newton(ニュートン)』という雑誌は写真やイラストがメインで解説も一般向けで分かりやすく、眺めているだけでも楽しめる雑誌でございます。一方、『日経サイエンス』という雑誌はかなり高度な話題が多く、こちらはチョット専門的な雑誌でございます。高校生の時などは、理解も出来ないのに『日経サイエンス』を読んだりして、格好を付けたりしておりました。書いてあることの半分も理解できませんでしたが、何かハイレベルなものに触れているという興奮がございました。
さて、今、巷の話題といえば「事業仕分け」でございますね。いやぁ、蓮舫さん、凛々しいですねぇ。そんな蓮舫さんの歯に衣着せぬもの言いに、高名な学者様からクレームがついたようでございます。確かに、科学技術というのは何十年もの過程を経て進歩していくもので、今結果が出ていないからと予算を減らされるのは、現場の研究者の方々にとっては不本意でございましょう。また、いわゆる発明・発見というものは“たまたま偶然見つかる(スピンオフ)”ことが多いわけで、「投資」と「結果」が直接結びつかないという点でも、その予算の設定には難しいものがあるのでございましょう。
ただ、先ほどの二種類の科学雑誌のように、『Newton』のような広い読者層をターゲットにした説明の仕方もあれば、『日経サイエンス』のようなやや専門家向けの説明の仕方もあるのでございます。どうも技術の最先端にいらっしゃる学者さんなどは『日経サイエンス』的な説明の方がお上手なようで、科学研究の重要性ばかり説いておられます。ところが、“仕分け人”の方々は、そんな科学研究の重要性なんて、たぶん百も承知なはずでございます。研究の重要性を分かった上で、無駄なところに流れているお金を搾り取るために牽制球を投げているのでございます。
学者の皆さん方は、頭から湯気を出して怒っているばかりではなく、ご自分の研究の現場を、もっと広い視野で見直すべきでございます。というか、研究バカ(失礼)な学者さんの横でちゃっかり私腹を肥やしている要領のいい人(普通は研究にあまり関係ない公務員が多い)が必ずいるはずで、今回の事業仕分けは、そういった「ちゃっかりさん」に対する“牽制球”なのでございますよね。たとえば、日本科学未来館関連のディベートでは、宇宙飛行士の毛利衛さんが直接事業仕分けに出席しておりました。未来館の意義を熱く説く毛利さんの姿とはうらはらに、仕分け人の感心はその未来館に張りついている科学技術広報財団の方でございました。
さてさて、そういった事業仕分けに関する賛否は世間で十分やられておりますので、ワタクシはちょっと違った見方をしたいと思うのでございます。“仕分け人”の方々には様々な厳しい批判がされております。同じ政治家の中にも、批判的な言葉を下す方もいらっしゃいます。でもね、思うのでございますが、仕分け人の方々も、けっして「好きでやっている」わけではないのでございます。たぶん、たまたま適任として選ばれたのでございましょう。中には、「貧乏くじ引いたな」と思っている仕分け人もいるかもしれません。にもかかわらずあれほど熱心に“仕分け”をする原動力は何か? ワタクシは何となく、「自分がやらねば誰がやる」といった使命感を感じたのでございます。
お店のところどころに、お花が飾ってあることがございますが、気づかれましたでしょうか。以前はワタクシが買ってきて花瓶に挿しておりました。大きな花瓶にドッカ〜ンと生けてある花は、ワタクシの作品でございます。
ワタクシは市内某所にすみかを置いております。そのワタクシのお部屋の隣には、「○○○○○○協会」という仰々(ぎょうぎょう)しい表札のお部屋がございました。その部屋に出入りするのは、かなり年配の男性二人。毎日、午前10時ぐらいにフラッとやって来て、午後2〜3時ぐらいに気まぐれに帰っておりました。
先日、その部屋が引っ越しをやっていたようで、ドアが開きっぱなしになっておりました。その開いたドアから、何気にその部屋の中を見える範囲で覗いてみたのでございます。まぁ、なんということでしょう。お部屋の中は、市内のありきたりのビルとは思えないような豪華な内装。部屋の片隅にチラッと見えるのは、ホームバーのカウンター。アジア方面からの旅行のお土産と思しき置物も多数、置いてあるのが見えたのでございます。
人気のあるスポーツの試合などがありますとお店が暇になるというのは、ワタクシがよくいうジンクスでございます。本日もその影響かどうか、夜はノンビリしたものでございました。そう、亀田興毅と内藤大助のボクシングの試合があったのでございます。
テレビの試合中継をボチボチ見ておりました。まぁ、シロート目にはいい試合だったと思いますよ。なんか逃げ回ってばかりいる試合とか、抱き合ってばかりいる試合とか、そんな試合じゃありませんでしたしね。ボクシング、あまり詳しくないので試合内容の詳しいことは分かりませんが、ワタクシがチョット気になるのは、テレビ局。
特に根拠はないのですが、こういった試合を見るたびに、テレビ局というものがどんどん不純に見えてくる。スポーツといえども“興業”ですので、興行収入とか動員数というものが大前提になってくるのは仕方がないことでございます。そう考えると、あれだけの動員を稼げる亀田一家というのは、興行的な感覚で見れば大変な“実力者”と言わざるを得ません。ところが、こういった“色物的な実力”というのは――まぁ一種の「ブーム」と呼びましょうか――時期が過ぎると、あっという間に「夢のあと」となりかねない、そんな一過性のブームなのでございます。
テレビ局も、そんな一過性を十分に分かっているはずでございます。分かっていながら、“旬”の間にボロ稼ぎをしようというのが、常套手段。持ち上げるときは思いっきり持ち上げて金儲けをし、落とすときにはこれまた思いっきり落とすことで話題性を取ろうとする。ひとつの題材で二度稼ぐという、効率のいい「利用の仕方」をするわけでございます。
オッパイの手術でお休みをいただいていた「川崎リオン」が、12/5(土)から復帰いたします。本来は12月の第2週ぐらいの復帰予定でございましたが、術後の調子がよいようで、少し復帰が早まりました。リオンのファンの方、長らくお待たせいたしました。