店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ワタクシがフロントをやる際、会計を済まされたお客様に「どうぞ、ごゆっくり」と声をかけるようにしておりました。もうかれこれ5〜6年、この言葉をかけておりますが、いまだにシックリ来ておりませんでした。というのも、うちの業種の場合、コースによって時間が決まっておりますので、「ごゆっくり」と言われたところで、時間が来ればさっさと追い出されてしまうわけでございます。そこで、ワタクシ的には「どうぞ、(お時間まで)ごゆっくり」という気持ちで声をかけておりました。
で、先日、ビックコミックオリジナルの『岳』という漫画を読みましたら、アメリカのカフェのオネェちゃんが「Enjoy」という語を客に投げかけておりました。もうね、その漫画を読んだときに「これだ!」と思ったのでございます。そこでワタクシも最近は、「どうぞ、楽しんでいってください」とか「お楽しみください」といった言葉をかけるようにしております。まだ慣れないせいか、ちょっと口ごもる場合もございますが、そのうち慣れることでございましょう。いい言葉にめぐり合えて、良かったのでございます。
そういえば、接客業で「ファミレス言葉」とか「コンビニ言葉」なんて取りざたされることがございます。「こちらがコーヒーになります」「千円からで、よろしかったでしょうか」といったような、よくありがちなやり取りに使われる言葉でございますよね。日本語として正しいかどうかと議論になったりいたしますが、この議論には大きなポイントが抜けていることが多いものでございます。言葉を発する人の“気持ち”でございますよね。言葉というのは気持ちがこもっていると、文法的には間違っていても、言葉としては“本物”になったりするのでございます。文法的な議論はよくされますが、言葉として本物かどうかは、あまり議論されないようでございます。
例えば、外国人と会話をするときに、なんとか伝えようという必死な気持ちがこもっていると、たとえ文法的に無茶苦茶でも意味が伝わってしまうといったことがあるでしょ。言葉というものを議論するときには、この「発する人の心」も同時に語られなければならないのでございます。ですから、たとえコンビニ言葉、ファミレス言葉といったものでさえ、心がこもっていれば本物の言葉になり、そして将来的に正式な日本語になるやも……ところがギッチョン、コンビニやファミレスで使われるマニュアル言葉は、本来、「心をこめるということに未熟な新人やバイトでも、同じような品質を保てるように」と考えられた言葉なのでございます。つまり、元から「心をこめる」ということを前提としていない言葉だったのでございます。もちろん、「心のこもった言葉」を目標にするお店や企業もまた多く存在するわけで、接客で使われる言葉は、まだまだ進化しそうでございます。
市川海老蔵さんが、退院して記者会見をしておりましたね。この会見を待たずして、南座のまねき(看板)はさっさと外され、パンフレットからは名前が消えております。松竹は無期出演停止をあっさりと決定しておりますし、この段取りの速さ、こりゃぁ事の真相は、関係者はみな分かっているようでございますね。
今日は、ジョン・レノンの命日でございます。世界中の様々な場所で、『Imagine』が演奏されることでございましょう。『Imagine』の歌詞には「You may say I'm a dreamer」とあります。確かに、「Imagine there's no countries, ... no religion too」なんて夢か理想のようなことが綴られております。
「no religion」という歌詞には皮肉ですが、理想を追いかけるのは宗教家の役目でございます。一方、政治家が追いかけるのは理想ではなく妥協点。政治の世界には、理想は存在しないのでございます。そんな現実世界のジレンマを超越したこの歌詞が目指すものは、きっと崇高な精神世界なのかも。では、現実世界に住むワタクシたちには、この歌詞は無意味なの?
テレビ東京系で放送されておりましたドラマ『モリのアサガオ』が、本日、最終回でございました。ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。
死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。
ブラッと本屋へ入って雑誌や書籍の間を散策するのが好きなのですが、そんなときに、思いも寄らぬ本に遭遇することがございます。先日、書店で雑誌を二冊ほど衝動買いいたしました。『Newton』という科学雑誌と、『般若心経入門』というこれまた難しそうな題名の雑誌でございます。書店のいいところは、パラパラッと中味を覗けるところでございますよね。で、雑誌をいろいろ立ち読みしておりましたら、この二冊の雑誌がワタクシの灰色の脳細胞の中で結びついたのでございます。科学雑誌とお経の本がどうして結びつくか、それをご説明いたしやしょう。
科学雑誌で気になったのが「無限ホテルのパラドックス」という記事。これは、「無限大」という数字にまつわるパラドックス(逆説)のお話しでございます。この記事で思い出したのが、「0による割り算」のお話し。みなさん、「1÷0」「0÷0」の答えをご存じですか? ワタクシが学生のころには、
1÷0=できない 0÷0=わからない
と教わった記憶がございます(最近の学説では変わっているかも)。「1÷0」というのは「ひとつの物をゼロ人で分ける」ちゅう事ですから、分けたくても分けようがない。ということで「できない」。「0÷0」というのは、「ゼロの中にゼロがいくつあるか?」ということで、これは一見、答えはゼロのようですが、実はゼロは何個集まってもゼロなので、ゼロの中にはゼロは1個かも知れないし、あるいは百万個かもしれない。答えが無限に存在するということで、「わからない」という答えになるのでございます(う〜ん、難しくてゴメンナサイ)。
色即是空:形あるように見えても、本当は何もないのと同じ 空即是色:何もないと思える空間にこそ、形が存在する
「色即是空」というのは、「形ある物全ては、本当はゼロなんだ」と言っているのでございます。ゼロだとすると、そのゼロがいくつ集まってもゼロ。つまり、「何もない(ゼロ)ように見えるところは、実は無数のゼロの集合体なのかも知れない」、それが「空即是色」ということ。ここで「有る=無い」という式が成り立つのでございます。この「有る=無い」という式はおかしく思えるかも知れませんが、「無限大」という数字が関わってくると成立してしまうのでございます。
部屋数が無限にあるホテル(無限ホテル)というのを想像してみて下さいませ。ただ今、無限ホテルは満室でございます。しかし、新たに客が一人、やってきました。さぁ、どうする? ホテルの支配人は全ての部屋の客を、ひとつ大きい部屋番号の部屋に移動させました。すると、まぁなんということでしょう、満室だったはずなのに、1号室が空室になったではございませんか。ということで、無限大という数字が関わると、「無=有」という式が成り立ってしまうのでございます。
年の瀬でございますね。バタバタと雑用をこなしております。え〜と、今年は珍しく、年賀状の作成が年内に終わったのでございます。12/26に投函できましたので、今年は郵便教の中の人にあまり迷惑をかけずに済んだのでございます。あと、各種支払い等は、12/27に全て完了いたしました。スッキリ、スッキリ、お財布の中もスッキリなのでございます。
また、お店も10年も使っていればそこら中にガタが来ておりまして、バスルームの排気ダクトが天井裏で外れているご様子。12月の上旬に業者にお願いしたのですが、年内は無理とのことで、年明けの仕事始めにやってくれるとのこと。年内にやっておきたかったことがひとつだけ、来年に持ち越してしまったのでございます。
11月には坂本龍馬のタオルのプレゼントをいたしましたが、この年末年始もグッズのプレゼントをいたします。まぁ、毎年お配りしている干支の石けんでございます。当店の店名は一切入っておりませんので、安心してお持ち帰り下さいませ。