店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ごぶさたでございました。一週間ぶりの書き込みなのでございます。この時期になりますと、ワタクシ、アレルギー性の喘息に悩まされるのでございます。この病気とは、10代の頃からのおつきあい。時期が時期だけに、毎回受験シーズンには、この喘息に悩まされた嫌な思い出がございます。
最初は風邪薬や咳止めシロップなどいろいろ試したのでございますが、ほとんど効き目がない。10年ほど前、まだ東京にいた頃、とある薬局で調合してもらった薬を服用したところ、これがピタッと効いたのでございます。結局それ以後は、東京に出向いたときを利用して、シーズン前にひとシーズン分の薬を買い込んでおります。同じ薬が名古屋で手にはいるのかもしれませんが、ジンクスというか、げんかつぎというか、その薬局で買わないと効かないような気がするのでございます。
最近、インターネットで薬が買えないようにしようという働きがございます。ネットで薬が買えるというのは、便利な反面、落とし穴も多いのでございます。世の中には、簡単に手に入らない方が良いものもあるのでございます。また、バイアグラとか女性ホルモンのような薬には、ネット上に多くの希釈品や偽物も出回っており、それらで体を壊してしまう人もいたりいたします。
中国は老子の言葉に「大道廃れて仁義あり(だいどうすたれてじんぎあり)」という言葉がございます。世の中の基本的なルールが守られないようになると、本来説く必要のない道徳心で人を諭さなければならないという意味でございます。今風な言い方をいたしますと、「モラルハザード」なんていうのでございましょうか。
「それは人としてやっちゃいけないよ」という基本的なルールには、細かい法律が作っていなかったり、チェックが甘かったりするものでございます。そういった法律の隙間を突いて、要領よく立ち振る舞う人たちがいたりいたします。国会で「天下り」が問題になっておりますが、その天下りも、細かく規定する法律がないために、野ざらし状態になってきた問題のひとつでございます。
そもそも法律を作っているのは「国会」でございまして、その国会を陰で牛耳っているのは官僚でございます。官僚の方々が、自らが損をするような法律に対して前向きに取り組むなんてことは、あり得ないのでございます。軍隊に憲兵があるように、官僚や国会議員を取り締まるのなら、ワンランク上層の組織でなければ、難しいと思うのでございます。
一方、ワタクシ、天下りが全く悪いとも思わないのでございます。もらっている給料が常識外れに高額というのは問題でございますが、人生というもの、何かしらの「ごほうび」がなければその仕事に尽力を注ぐという気持ちが失せてしまうのでございます。今風な言い方をすると「インセンティブ」とでもいうのでございましょうか。「年をとってからいい思いが出来る」という目標があってこそ、官僚という雑多で負担の大きい仕事にも我慢が出来ようというものでございます。
その後、20代から30代になり、その度に自分の人生を振り返るときが何度もある。そしてその度ごとに、それまでの人生がほんの一瞬の出来事のように思えてくる。このまま死ぬまでに何度も人生を振り返り、その度に、それまでの何十年という過去が一瞬の出来事のように感じられ、そしてさらに、一生を全(まっと)うするときにも、同じように自分の一生をまるで一瞬の出来事のように感じるのであろう。
人生は、楽しんだり、悲しんだり、恨んだり、悩んだりする けれど、これはすべて、一瞬の出来事の中のひとこま 富や名声を持ち続けたいと願う けれど、持っていられるのは一瞬の間 やってしまったことを悔やみ、何もやらなかったことも悔やむ 何もかも、一瞬の出来事 愛することの意味を考え、愛されることの喜びを知る その一瞬の間に 出逢いがあり、結ばれ、そして別れの消失感を味わう でも、別れはお互いさま、すべてが一瞬どうしの交わりなのだから 裸で生まれ、一瞬の時を過ごし、裸で死んでいく、これはみな同じ 人生というものは、本当はすごく単純なものなのかもしれない
毎日電話を取っておりますと、ときどき面白い電話を頂いたりいたします。本日も「○○のお店の場所を教えてください」なんて電話を頂きました。今回、この○○には名古屋の他のお店の名前が入っていたわけでございますが、この○○に東京や大阪のお店の名前が入ったりして、このような質問の電話はときどきかかってまいります。
まぁ、お客様は他意なく気軽に質問されているのでございましょう。他のお店のことは営業的に答えられないという理由も有るのですが、それ以前に本当に他店の場所ってのは知りません。ということで、低調に「分かりません」とお答えしたりいたします。
まず、店名を決めるときに画数を気にしたというのもあるのでございますが、さらにもうひとつ大きな理由がございます。それは、先日も申し上げましたように、「シーメール」という語がそのまま「ニューハーフ」を意味しますので、他の多くのお店が「シーメール」という語を店名の一部に使ったりしております。
最近はお店の情報をインターネットの検索で調べたりいたしますが、その際、この店名の微妙な違いが大きく影響してくるのでございます。つまり、「シーメール」という一般の語を使いますと、「シーメール」で検索されたときに、何十件も検索に引っかかってしまうのでございます。一方、「シィメイル」という一般には存在しない語で検索していただければ、当店が検索結果のトップに引っかかってまいります。当店の名前は、インターネットの検索まで考慮したネーミングになっております。
かつてインターネットの黎明期には、いかにヤフーなどの検索結果の上位に表示させるかというような熾烈(しれつ)な競争がございました。ところが最近は、検索エンジンの性能が上がってきたのでしょう。ちょっと長めの単語で検索をかけると、ジャストヒットで目的のページを見つけてくれたりいたします。テレビのコマーシャルなどでも、わざわざ長々としたアドレスを言うこともなく、「○○で検索を」のような書き方をするものも多くなってまいりました。
世界中に映像が配信されているあの場であれだけ可愛く酔っぱらえるなんてのは、かなりの「豪傑」でございますよ。ただ、まわりの人たちが中川さんを「見殺し」にしちゃいましたよね。あれだけのパフォーマンスをしているのだから、もうちょっと絡んであげなさいよって感じ。せめて、横に座っていた日銀総裁が多少なりとも笑うとか声をかけるとかしていれば、「ハプニング」の域で片付けられていたかもしれないのにね。
いや、大事な会議の最中にあの泥酔状態では困りますが、すべてが終わった後の記者会見ですからねぇ。それに、昼食にもお酒が出るようなお国柄ですから、現地の記者はお酒に関してはそれなりに寛大だと思いますよ。中川さんのまわりの人たちが、もう少しユーモアを持ってフォローしてあげてたら、笑い話ですんだような気がいたします。
「敏いとうとハッピー&ブルー」というグループをご存じでしょうか。そのグループのメンバーの一人が長らく「行方不明」ということになっていたのですが、実はその行方不明の人がニューハーフになっていたのでございます。このニュースは、昨年末にスポーツ新聞やテレビのワイドショーで取り上げられておりましたので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
そのニューハーフとして見つかった元メンバーが古巣のグループに合流いたしまして、この度、CDを出すことになったのでございます。そのいわく付きのCDの発売日が本日なのでございます。ワタクシ、そのニューハーフの方とは若干面識がございまして、何とか応援したいと思っておりますが、いかんせん、地味でどうなのかなぁという感じでございます。
はるな愛さんのCDの曲はオリジナルでございます。作詞・作曲・編曲含めての全くの「新作」なのでございます。しかも、PV(プロモーションビデオ)を収録したDVD付き。ジャケットの写真はホログラム仕様で虹色に光っております。レコード会社はエイベックスということで、豪華なCDでございます。
一方、「敏いとうとハッピー&ブルー + ニューハーフ」の方はと申しますと、これが、「う〜ん」という感じ。曲は『射手座の女』。20年前のヒット曲の焼き直しでございます。では、編曲が斬新なのかと申しますと、編曲も昔のまんま。ほんとに「う〜ん」なのでございます。CDジャケットも薄っぺらくて簡単なもの。もちろん、DVDなんか付いておりません。レコード会社はコロムビア。しかたないって言えばしかたないのでございますが、「もうちょっと力を入れてやれよ」って感じでございます。
本日は休養日。午前中かけてバタバタとATMで支払いを片付けてまいりました。このATMのバカさかげんにもひとこと言いたいのでございますが、それは後日ということで。夕方までにいろいろと用事を済ませまして、夕方から夜にかけて、映画を二本観てまいりました。ストーリーのネタバレはございませんので、安心して最後までお読みくださいませませ。
まず『チェンジリング』。主役の「アンジェリーナ・ジョリー」、なかなか熱演しておりますが、この役を演じるにはちょっと荷が重すぎたかも、と思ったりいたしました。まあ、そこはイーストウッド監督、緻密な作りで、良い映画に仕上げております。「硫黄島二部作」でもそうでしたが、この監督の真骨頂は恥部も美点もありのままに素直に描くことでございます。味付けよりもネタの新鮮さで勝負する、すし職人のような映画作りでございます。ですから、今回のような事実に基づくストーリーの場合、なおさらこの監督の良さが浮き彫りになるのでございます。
時代考証には力を入れている映画でございましたが、いかんせん、最近のデジタル撮影の映画は解像度が“高すぎる”。女優のシワのひとつひとつまではっきりと見えてしまうのでございます。その精細感が最新技術の真骨頂なのでございますが、大きなスクリーンで何もかも見えてしまうのは、やはりやや興ざめな感がございます。カメラ用語で「紗(しゃ)をかける」という語がございます。映像をソフトフォーカスにするということで、ひと昔前のテレビ番組では、女優さんが出演する場面にだけ、あからさまに使用されたりしておりました。もちろん、そんな“あからさまな”演出は過去の技術であって、最近の精細感をモットーとする映像技術の前では、女優さんたちは苦労するのでございます。
あるいは、「フィルムグレイン」という技術がございます。デジタル撮影されたカチカチの映像に、意図的にフィルム独特の粒子状のノイズを乗せる技術でございます。デジタル技術の台頭で、「ありのまま」の姿を鮮明に録画することが、最近のカメラでは可能になってきております。ところが、ありのままに写せば写すほど、何かしらの違和感も生まれる。見えすぎるのでございます。そこで商業作品などは、デジタルで撮影してもわざとフィルム状のノイズを加味して、アナログっぽさを出しているのでございます。ノイズレスを目指してきた技術革新が、その人間との接点の部分でノイズを加味する要求に迫られるとは、皮肉なものでございます。
記録映像ならば、出来る限り鮮明に録画できる方がいいでしょうが、こと「映像作品」となりますと、そこには「味わい」というものが重要になってくるのでございます。そして、今まで何十年も「フィルムによる映像」を見続けてきた人にとっては、フィルムの持つアナログっぽさをその「味わい」としてすり込まれております。ところが、デジタルの精細な映像ばかりで育ってきた世代の人は、逆にそのカチカチの映像を「味わい」としてすり込むのかもしれません。ここで、世代によって「映像作品」に対する味わいの要求が変わってくる可能性がございます。逆に作品を供給する側には、作品の味わいをデジタルとアナログの両極端のどの位置に調整するかという選択を迫られるのでございます。
最初に申し上げますが、この映画は、全く予備知識なしで見に行くべきでございます。映画の広告文ぐらいは読んでも構いませんが、もし映画館でパンフレットを買ったら、映画を観る前にそのパンフレットを開いてはいけません。予備知識がなければないほど、この映画は楽しめます。
最初、この作品の原題を見たとき(あえて原題は記しません)、ちょっとドキっといたしました(邦題の『七つの贈り物』は、非常に意訳的に訳されております)。原題に使われている単語に、ある非常に恐ろしい訳を思い出してしまったのでございます。そして、その推測は、映画のストーリーが進むに従って、より確かなものへと変わってまいります。この映画の原題から、ある文豪を思い浮かべた方は、たぶんワタクシと同じようにドキッとするはずでございます。
そして、この映画はあまり説明的ではありません。小さなシーンのひとコマずつが、ラストシーンに向けて非常に重要なヒントになってまいります。ストーリーが進むにつれて、その小さなジグソーパズルのパーツが少しずつ組み上がり、ある程度組み上がってきた瞬間に、ラストシーンがはっきりと予想できるようになります。その瞬間からが、この映画の醍醐味でございます。その信じられないラストシーンに気がついたとき、恐怖と畏敬と感動の混じったような不思議な感覚がじわじわとわき上がってまいります。
ストーリーの進行につれて、その不思議な感覚は確実に濃度を増し、観客はブラックホールのようなラストシーンに吸い込まれていくのでございます。見るのは恐いけれどスクリーンから目を離すことが出来ない。そのような緊張感を持続したまま、たたみ込まれるようにラストシーンに引き込まれていきます。この少しずつ組み上がるパズルの謎解きと、それに伴う緊張感の連続、そしてラストシーンへと“落とされていく”感覚。もし映画でしか表現できないものがあるとすれば、まさしくこの映画は、そんな映画独特のおもしろさを具現した作品でございます。