店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
あけましておめでとうなのでございます。元旦恒例の「かくし芸大会」などを見ておりました。中山秀征さんのシャボン玉のかくし芸が、なんだかいちばん気に入ったのでございます。シャボン玉を見ていると、自然と顔がほころんでくるのでございます。シャボン玉には、顔をほころばす不思議な力があるのでございます。
昨年の暮れのことでございますが、当店の掲示板へ「プレイルーム内で撮影をしたい」という書き込みがございました。ただ今、ルーム内での一切の撮影はご遠慮いただいておりますので、その質問に対しては、その旨、回答させていただいたのでございます。
当店も8年前のオープン当初は、ルーム内での撮影に関してはかなり寛容でございました。ポラロイドカメラを貸し出してのハメ取りなども行っておりました。ところが、インターネットの普及に伴い、簡単に画像データをアップロード・ダウンロードできる時代になりますと、どうしてもある程度のリミッターを設けざるを得ないのでございます。
わざわざ撮影させて下さいと申し出ている方には、けっして悪意はないというのは分かっておりますよ。けれど、あらゆる可能性を考えますと、すべておしなべて一律にご遠慮いただくという形になっちゃうのでございますよね。「性善説を信じたいけれど、性悪説で対処しなければ立ち行かない」という、最近のネット事情そのものに影響されている状態でございます。
あっという間に正月の三日、明日の日曜日で正月休みも終わりという人が多いのではないでしょうか。年末年始を通常営業するのは当店の恒例でございますが、今年の年末年始は普通のウィークデーのような感じでございました。本来、年末年始というのは特定の日、特定の時間にお客様が集中しやすいのでございますが、今回は「ちょっと忙しい普通の日」という感じでございました。巷もあまり新年へのイベント感が無いようでございますし、世の中全体がイベント疲れ、イベント麻痺になっているのかもしれません。
「イベント麻痺」ということは、「ワクワク感」が無くなっているということでございます。ではなぜワクワク感が無くなっているか。それは、ワタクシ、現在のネット環境が影響していると思うのでございます。例えば、昔なら「仕事が終わったら家に帰ってあの番組を見よう」とか、「学校が終わったら、あのマンガの続きが読みたい」といった、「緊張と緩和」の区別がはっきりしていたのでございます。ところが最近では、仕事中でもメールで私語のやり取りやワンセグ受信とか出来てしまいますし、授業中にゲームで遊んだりなんてこともやろうと思えば出来てしまうのでございます。
あるいは、ネットショッピング・番組のネット配信といったものの普及で、「待つ」「我慢する」「諦める」といったことが少なくなってきております。これも緊張と緩和を曖昧にする要因になっております。緊張があるから緩和したときの喜びも大きいのでございます。便利さのぬるま湯の中で緊張の度合いが低くなるにつれ、人間の「喜びのしきい値」はどんどん高くなり、ワクワク感や獲得したときの喜びは減少しているのでございます。
朝、テレビをつけましたら、いきなり美輪明宏さんの荘厳なお顔が映りまして、びっくりしたのでございます。その美輪さんが「色気」に関して言及しておりました。色気とは「やさしさ」だそうでございます。たとえば、グラス一杯の飲み物でさえ、そのグラスを作った人、飲み物を入れてくれた人、テーブルを作った人、そういった人々すべてに感謝し、そういった人に恥をかかせない「やさしさ」、それが色気につながるということだそうでございます。
新人のニューハーフが徐々に女っぽくなっていく過程では、この「色気」というのがなかなかの関門でございます。単なる「美しさ」というものは、お化粧や美容整形といった”力技”である程度は形が出来ていくものでございます。ところが「色気」というものは、出そうと思って出せるものではございませんし、逆に生まれつき意識せず色気を振りまきまくっているなんて恵まれた人も、この世の中には存在したりいたします。
お店をオープンしてからの八年間、毎年欠かさずこの初えびすには通っております。出かけるのは必ず四日の営業直後の深夜でございます。日中はお店に張りつき状態でございますし、午前中は急に何か用事が入るかもやしれません。結局、深夜に出向くということになるのでございます。
寒さ対策を十分にして出かけたのでございますが、いざ外に出てみると、今年はそれほど寒くない。これも、地球温暖化の影響でございましょうか。シィメイルとアネックス分、熊手が二本と「あきないえびす」のお札が二枚。小脇に抱えて、いざ熱田神宮なのでございます。
昨年の熊手とお札を”どんと焼き”の中に放り込み、身軽になったところで上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)と本宮を参拝いたします。その頃には体が冷えてまいりますので、ちょいと寄り道をして休憩所でアツアツの「宮きしめん」をいただくのがいつものパターンでございます。
今年の年末年始はお茶をお配りしております。粉末の梅昆布茶なのでございます。薄っぺらくてポケットに入れやすいということもありまして、ほとんどのお客様に持って帰っていただいております。また、中に入っている「おみくじ」が気になり、フロントですぐに開けておみくじを確認するというお客様もいらっしゃいます。
世界規模の不景気、なかなか深刻でございます。こういったことに楽観的な発言をすると様々な方面からお叱りを頂いたりするのでございますが、あえて申し上げようと思うのでございます。ワタクシ、この不景気は「幻想」だと思うのでございます。人の心が作り出した幻想。人々の心のベクトルが一斉に不景気の方角へ向き直ってしまったために、一時的に経済が停滞しているように見えるだけ、そんな気がするのでございます。
オイルショックの時のトイレットペーパー騒動をご存じでございますか。あれも、人の心が作り出した騒ぎでございます。トイレットペーパーなんてまったく不足していないのに、大衆の心のベクトルが一斉に向きをそろえてしまうと、あれほどの大騒ぎになるのでございます。かくして、トイレットペーパーの大幅な需要過剰を生み出し、トイレットペーパーごときが高騰したのでございます。
昨年の暮れに緒形拳さんが亡くなられまして、その最後の出演となった『風のガーデン』(倉本聰脚本)というドラマがなかなかに良い感じでございました。そのドラマの後番組として『ありふれた奇跡』というドラマがスタートいたしました。「山田太一脚本」と、大々的に宣伝しております。まず「脚本ありき」というドラマの作り方、出演者には申しわけございませんが、好感が持てるのでございます。最近は、アイドル出演者の演技力不足を補うための原作レイプドラマが多いのでございます。
山田太一さんの脚本は、日常が淡々と進んでまいります。役者もあまり抑揚をつけず、静かに静かに演技をいたします。ひとつ間違うと“棒読み芝居”になりかねない、そのギリギリのところで「日常の自然さ」を演出しております。まさに、ありふれた他人の日常生活をのぞき見しているような感覚、そこに山田太一の真骨頂があるのでございます。
本日は非常に体調が悪かったのでございます。左の肩から肘にかけて、ドーンとした重い痛みが夕方から続いておりました。クシャミや鼻水も多少出ますし、「風邪を引いての関節痛かな」などとも思いましたが、体の左側だけというのも不思議なのでございます。ひょっとしたら水子の霊?、アハハ、ワタクシ、自分で産んだことも産ませたこともございません。
一年ほど前から、ペットボトルのお茶をやめて急須で熱いお茶を入れて飲んでおります。以前は昔ながらの瀬戸物の急須を使っておりましたが、その急須を割ってしまってからは、ガラス製の急須を買い求めて使っております。この瀬戸物とガラスの素材の違いが、お茶の味わいに、これまた影響するようでございます。
まず、お茶というものはあまり熱いお湯を使っても美味しくないのでございます。急須と湯飲みを温めた後のすこし温度が下がったお湯の方が、お茶の甘みがよく出るのでございます。これが瀬戸物の急須ですと、急須がほどほどにお湯の温度を下げてくれるのでございますが、ガラス製のものですとあまり温度が下がりません。甘みの少ないトゲトゲしいお茶になるのでございます。
いろいろ工夫した結果、ガラス急須でお茶を入れるときには、急須の中に最初から冷凍庫の角氷をひとつ入れておくという方法に、落ち着いたのでございます。さてこれで、お湯の温度の問題が解決し、ガラス急須で美味しいお茶が飲めるかと思いきや、いや、どうもお茶が薄い。なかなか濃いお茶が出にくいのでございます。
今日は「鏡開き」ということで、さっそくお店に飾っておりました鏡餅を「開いた」のでございます。本来、お持ちを「割る」という表現が適切なのでございますが、正月早々「割る」という表現はどんなものかということで、「開く」という後を使って「鏡開き」となったそうでございます。
ところが最近の鏡餅は、プラスチックの張りぼての中に個別包装された小さなお持ちがいっぱい入っているものが多いのでございます。張りぼての裏側のシールをペリペリペリと「開けて」、中の小餅を取り出すわけでございます。まさにその名前の通りの鏡開きになってしまったのでございます。個別包装からお餅を取り出しますと、堅くはあるけど歯でかじられる程度の半生の堅さ。技術の進歩はすごいのでございます。
ワタクシが子供のころの正月のお餅といえば、お米屋から届く座布団のような大きな板餅でございます。それと、段ボール一箱分のみかん。お餅は“出来たて”でまだ柔らかいですから、それを包丁で切り分けるのがワタクシの担当。その箱一杯のミカンと、これまた箱一杯のお餅を、年末から年始にかけて食べるのでございます。
麻生さんの支持率が、すごい勢いで下降しているそうでございます。定額給付金に対するノラリクラリとした発言も、その一因でございましょうか。ワタクシ思いますに、あの定額給付金の二兆円、もし給付された国民が本当に一斉にその二兆円を使ったら、これは間違いなく効果有ると思いますよ。麻生さんお得意の“後付け理由”も、まんざら間違ってはいないと思います。
ただ、麻生さんの言葉はどこまで行っても「他人ごと」なんですよね。言葉に「心」が無い。給付金の真の目的は、「配ること」ではなく「使ってもらうこと」なのでございます。ですから、「この給付金で活性化させる確信を持っている。だから、私を信じなさい!」と国民の心情に訴えればいいものを、自己の方法論の正当性ばかりを主張している。あれでは、支持率が下がるのは当たり前なのでございます。
結局、“ねじれ国会”になったことで、「話し合いで調整する能力が日本の政治家には皆無である」ことが、露呈しちゃいましたよね。ねじれた状態で政治を押し進めるのなんて、簡単でございます。与党が自らの政策を捨てればいいのでございます。野党の政策を大きく受け入れ、国政はドンドン進み、すごい勢いで問題解決でございます。で、その手柄は誰のもの? もちろんその手柄は過半数をしめる与党のものでございます。ではなぜこういった「歩み寄り」が出来ないのか。それは、本来「手段」で有るはずの政策が、「目的」になっているからでございます。
たとえば、芸術作品での「目的」は「お客を感動させること」でございます。その目的への「手段」として、様々な演出方法をとるわけでございます。演出方法の違いで、音楽とか美術とか舞台とか、種々多様な芸術作品が生み出されるわけでございますが、その最終目的である「感動」という終点は、どんな芸術でも同じなのでございます。
またあるいは、当店の場合、最終目的は「お客様に喜んでいただく」ことでございます。その手段として、コンパニオンのレベルアップであるとかホームページの充実。お部屋や備品への気配り、値段設定など、様々な「手段」が有るわけでございます。共存できる手段もあれば、排他的な手段もございます。どの手段にウェイトを置き、どの手段を切り捨てていくか、それがお店運営の「色」を決めることになるのでございますが、目的である「お客様の喜び」は、たとえどんな手段を採用しようと変わらないのでございます。
さぁ、この目的と手段を政治にあてはめますと、「目的」は「国民の生活安泰」でございます。そして「手段」が「各政党の政策」でございます。政治家全体がその目的をはっきり見定めていれば、あとは各政策を調整するだけでございます。みんなが同じ目的のために行動しているのでございますから、多少の譲歩・すり合わせなどは必要でございますが、とりあえず進んでいくはずでございます。それがまったく進まないということは、目標が定まらず、それぞれがバラバラな方向に歩み出そうとしているからでございます。
本日はワタクシの完全休養日でございます。午前中からお部屋の片づけや買い出しなどをバタバタとこなしておりまして、気がつくと夕方でございます。このまま一日を過ごしてしまうのももったいないと思い、久しぶりに映画館に行くことにいたしました。とりあえず、上映中の映画の“あらすじ”をザッと確認し、映画館へと向かったのでございます。
最初に飛び込んだのは『ワールド・オブ・ライズ』。CIAの諜報員がテロリストを追い詰めるというストーリーでございます。レオナルド・デュカプリオ、貫禄出ちゃいましたねぇ。髭とか生やして恰幅(かっぷく)が良くなっているので、最初、誰だか分からなかったのでございます。そして、映画全編に漂う『ブラック・フォーク・ダウン』の雰囲気、エンドクレジットで確認すると、監督はリドリー・スコットとのこと。納得したのでございます。
最近は、平日でもレイトショーをやっているのでございますね。一本見終わって、まだ間に合う映画がございました。2本目に飛び込んだのは、キアヌ・リーブスの『地球が静止する日』でございます。人類を襲う宇宙人の大群にアメリカが一国で立ち向かうという、「宇宙人vsアメリカ」という、アメリカ映画のよく好むストーリーでございます。
まだ見ていない方のために、細かいストーリーは申し上げませんが、どちらの映画のエンディングも、いたって“アメリカ的”でございます。ただ、今までのアメリカ映画にはなかった傾向として、アメリカ映画が“アメリカの恥部”をさらけ出しております。『ワールド〜』ではアメリカのアラブ人への見下した感覚を、『地球が〜』では“アメリカさえよければ”というアメリカのエゴでございます。
そもそもアメリカ映画には、「インディアン」に対する背徳と免罪の歴史がございます。かつて「みさかいなく白人を襲う殺人集団」として描かれた古き西部劇でのインディアンは、今では正当なアメリカ大陸先住民として描かれ、アメリカ映画はその差別的表現には非常に神経質になっているのでございます。
同じようなことが、宇宙人の表現でも見られるのでございます。「侵略者」としてしか表現されなかった宇宙人が、『未知との遭遇』という映画で初めて「人類と同じ生命体」として表現されたのでございます。SF映画的には画期的なことでございまして、この映画を機に、『ET』などに見られるように、宇宙人の扱いは大きく変わったのでございます。
『超嬢≪ニューハーフ≫える&のぞみ』 [GUN-454] 発売元:RADIX(レイディックス) (http://up-tight.com/)パッケージの写真を見ると、なかなか綺麗な出来上がりでございます。お店にも在庫を置くつもり(発売日には間に合いません)ですので、希望の方は来店時にフロントでお求め下さい。
ネットで通販とかしていると、「あなたにおすすめの商品」とかいう名目でセールスメールが届いたりいたしますよね。そのセールスメールでたまたますばらしい音楽に巡り会えたのでございます。「saya」という芸名の日本人女性のCDでございます。『花』というワタクシの好きな歌が入っていたので、まぁ騙されたと思って買ってみたのでございますが、これが大当たり。みなさま方にも紹介するのでございます。
『こもれび』saya (AQUARELLE RECORDS AQCD-0010 ¥1,200) M1:ウタキの丘で M2:木もれび M3:花〜すべての人の心に花を〜 M4:月香夜
透き通った女声ですが、そのやや凛々しい歌い方のせいでしょうか、どこかボーイソプラノを思わせるような中性的な響きのある声でございます。聴いていて心に引っかかる声というのでしょうか、純粋物にほんの少し不純物が混じっているような、あるいは目映(まばゆ)い光の中のわずかな影を見てしまったような、そんな「気にさせる」声の持ち主でございます。
受付をしておりますと、いろいろ変わったことに遭遇いたします。先日もフロントで、お客様は確かに予約を入れたと言われるのですが、そのような予約を受けた記録も覚えも全くないのでございます。よくよくお客様に事情を聞いてみると、コンパニオンに直接予約を入れたとのこと。なるほど、それではフロントに記録が残っているはずはございません。あいにく、お客様が予約を入れたというコンパニオンは接客中で、しかたなく、そのお客様は他のコンパニオンで遊んでいかれたのでございます。
お客様とコンパニオンが何らかの連絡方法を持つというのは、本来、この風俗というお仕事ではタブーでございました。ところが、コンパニオンが自身のホームページやブログを持つようになりますと、もはやメールアドレスなどをオープンにするということが普通になってきております。といったことで、コンパニオンとのやり取りで、お客様はすでに予約を入れたと思い込んでいたのでございましょう。
寒いし、雨は降っているし、こんな日はお店は暇なのでございます。年末年始にバタバタしたのとは裏腹に、1月の中旬から2月にかけては、比較的暇になる時期でございます。コンパニオンの中には、こののんびりしている時期に美容整形などの計画を立てる人もいたりいたします。
サービス業の宿命なのでございますが、他人様が遊んでいるときが当店の忙しいときなのでございます。逆に、一般の方が忙しく仕事に追われるような時期というものは、お店ものんびりいたします。みなさま方、忙しい日々を送られているのでございましょうか。そして、正月休みに家庭サービスをして、疲れが出ている時期でございましょうか。
日本映画とは思えないほど(と言っては失礼かな)、脚本の出来が良いです。2時間20分という上映時間を見てチョット二の足を踏みそうになりましたが、見終わるとその2時間20分では足りないという感じ。「あぁ、3時間ぐらいの長編でもいいな」と思ったのでございます。映画関係者の方、もし読んでいたら、DVD発売の際には「ディレクターズカット3時間版」みたいなのを出していただけたらなんて、勝手なお願いをしちゃうのでございます。
主演の「妻夫木聡」さん、すごい熱演でございます。『どろろ』でのあの投げやりな演技(失礼)とは打って変わって、力の入った演技でございます(百鬼丸の役、嫌だったんだろうな)。いや、妻夫木さんだけでなく、出演者がみな、頑張っております。医療関係の脚本は、専門用語がらみ、医療器具がらみで大変だということが想像できるのでございます。近頃の医療ドラマに臨場感が薄いものが多いのでございますが、この映画は本物でございます。
ワタクシ思うに、「この地球上で、人間は永遠に存続する確証も権利も有してない」と思うのでございます。「その時その場の環境に適した生物が生き残る」、これが自然の摂理でございます。ということは、環境が変われば人類が“絶滅”し、他の種が人類の代わりに台頭するということも自然の摂理にかなっているわけでございます。「人類の進んだ科学が、自然の摂理をも凌駕する」という考え方もあるでしょうが、例えば、タミフルが効かない新種のウィルスが出始めているなんて話も聞かれます。科学技術の進歩を追い抜く勢いで、自然の摂理も変化しているようでございます。
みのもんたさんが自身の番組で、大いに怒ったそうでございます。なんでも、職を失った人たちを救済するために公的機関が求人を出したところ、応募がサッパリだったそうでございます。その理由が「理想の職種がないから」ということで、そのニュースにみのもんたさん、「働かざる者食うべからず」と言わんばかりに、口角泡を飛ばして激怒したそうでございます。
ワタクシ以前、この派遣切りで路頭に迷った人たちのことに言及したとき、「思慮の浅いやさしさは、『やさしさ』という落とし穴に入れてしまいかねない」と申し上げました。また、「夜露や空腹をしのげる環境を提供する代わりに、街の掃除ぐらいのお仕事をやらせるべきだ」とも申し上げました。あの「年越し村」に集まった人たちには、強制的に何かお仕事をさせても良かったと思いますよ。ひょっとしたら、あの見返りを要求しない善意が、当事者の復活への意欲を削いでしまったかも知れません。
何やら、東京の築地市場では、マグロの競(せ)りを外国人が見学に来るとのこと。見学者のマナーが悪くしばらく禁止していたのを、つい先日復活させたそうでございます。そんなニュースを見ておりまして、ワタクシ、若い頃に日比野(名古屋)の中央卸売市場でアルバイトしていたのを、思い出したのでございます。
朝というか深夜一番早いのは鮮魚市場でございます。陽が昇るころになりますと、塩干と呼ばれる加工品の部門がバタバタとし初め、すっかり明るくなり鮮魚市場が清掃を行っている頃には、青果市場が賑やかになってまいります。魚屋さんは気さくだが短期な人が多く、よく怒られたものでございます。塩干の人は口数少なく、ギロッとした目力(めぢから)の強い人が多かったですよね。やはり恐かったですよ。それに比べて、青果市場の八百屋さんは、実に朗らかでまったりとした人が多かったです。
この「ひとりごと」の欄を読んでくださっているお客様から、「読んでますよ」とか「いつも楽しみにしてます」といったお言葉を、ときどき頂きます。本当にありがとうございます。そういったお言葉のひとつひとつが、この「ひとりごと」の欄を書き続ける原動力になっております。
たとえば、芸術活動に従事する人は、聴衆の喝采を浴びることで、それまでのすべての苦労が報われたりいたします。他人に与えた感動によって、自分も感動できるからでございます。この「感動のやり取り」、別に芸術活動に限ったわけではございません。世の中に存在するありとあらゆる職業は、この感動のやり取りをしているのでございます。
農業や漁業に従事する人は、その生産物が一家団欒の食卓に並ぶ様子を想像するでしょう。工場で働く人ならば、自分の作った製品を末永く愛用してくれる人のことを想像するでしょう。教壇に立つ人ならば、未来に向かって目を輝かせる教え子の将来を想像するでしょう。大工さんなら、ひとつ屋根の下で幸せに暮らす家族のことを想像するでしょう。
朝青龍、優勝しましたね。いい顔してました。立派だと思います。下馬評であれだけひどいことを言われておきながら、スパッと優勝しましたからねぇ。土俵でのガッツポーズが物議を醸し出しておりますが、もうね、世の中ってのはちょっとしたアラでも見つけては、突っつきたくなるんですねぇ、意地が悪いですねぇ。
朝青龍のことをヒール(悪役)とか言いますが、朝青龍はヒールでも何でもないと思いますよ。ただ喜怒哀楽がはっきりしていて、“やんちゃ”なだけでございます。でも、マスコミとかは「ヒール」として扱った方が、何かと記事にしやすいのでしょう。
芸能人のイメージってのは、意外とマスコミが作り上げている要素が多いのでございます。その人の悪役っぽい部分だけを編集すれば、いかにも悪役のようなイメージが視聴者に伝わるのでございます。ひとたび「悪役」というレッテルが貼られると、以後は“そのイメージありき”で編集されますので、ますます、そのイメージは固まっていくのでございます。
東京のマンションで隣室の女性が殺害されたニュースは、まだ記憶に新しい所でございますが、本日のテレビは、その事件の公判のニュースで持ちきりでございました。犯人は「もう死刑しかありませんね。早く死刑にして下さい」と、言っているようでございます。一方、つい先日には、闇サイトで出会った三人が、帰宅途中の女性を殺害するという名古屋の事件の犯人全員に、死刑判決が出ております。「犯人にまったく反省の色が見えない」という裁判官の言葉が印象的でございました。
「盗んだ」とか「壊した」という犯罪ならば、金銭で償うということも可能でございます。ところが、「殺した」という犯罪には、償う方法がないのでございます。「死をもって償う」とは言いますが、それが根本的解決に至るわけではございません。遺族の悲憤(ひふん)を多少沈め、社会に対する戒めを与える、そういった社会的な影響力を期待するだけの処置でございます。そもそも、「死刑になりたい」と言っている犯人にとっては、死刑は「処罰」としての意味合いも持たないのでございます。
死刑に値するような犯罪が起きたとき、死にたくなるのは犯罪者だけではございません。被害者の遺族はもとより、加害者の家族もその社会的な非難のために死にたいという衝動に追い込まれるようでございます。殺人事件というのは、関係者すべてを不幸にさせる、悲しい犯罪でございます。
そんなニュース報道に起因されたわけではございませんが、映画『誰も守ってくれない』を見てまいりました。殺人事件の犯人側の家族を、その社会的な中傷や攻撃から守るという刑事の物語でございます。事件への中傷は、ある新聞記事をきっかけに犯人の個人情報だけではなく刑事の個人情報までもさらされながら、ネットで炎上してまいります。犯人側の家族を描いた、非常に数少ない映画のひとつでございます。
「オウムで、何かが『タブー』を超えてしまった。戦争でも使わなかったサリンが使われた」(映画パンフレットより)という言葉を借りるならば、「ネットがタブーを超えてしまった。出版・報道などで忌避される『匿名での中傷』が、当たり前のように行われている」と、ワタクシ、申し上げるのでございます。
誰でも「殺人はいけないこと」というのは、“理屈では”分かっております。にもかかわらず人間は時として、殺人事件を起こしてしまいます。精神的に追い込まれたり、幼児体験に問題があったりなど、様々な諸条件が重なり合い、理性の壁を感情が越え、最悪の場合には殺人事件という結果になってしまいます。後から「大変なことをしてしまった」と気付くのではございますが、それは理性の力。人間が理性と感情のバランスを取りながら生きている生き物である限り、殺人事件というものは、可能性としては誰でも起こしうるものなのでございます。
一方、ネットでの中傷を考えますと、匿名で他人を攻撃するというのは、やはりみんな“理屈では”分かっているのでございます。ところが、匿名で何でも書き込める環境が存在いたしますと、時として、“書きたいという感情が理屈を凌駕”してしまうのでございます。このメカニズムは、殺人事件の犯人が殺人を犯してしまうメカニズムとなんら変わらないのでございます。そして、中傷された人の自殺などにも発展する可能性を考えますと、間接的な殺人事件とも言えるのでございます。
当店のトイレもその状態。いえ、ちゃんと毎日掃除してますよ。それでも、どうしても匂いが残る。これはきっと、隙間の奥深くに入り込んだ汚れが鍾乳洞の石灰岩のように結晶化し、空気中の水分を取り込みながら毒素をはき続けているに違いない、そう思ったのでございます。
そこで、本日は意を決して新兵器の投入でございます。その新兵器の名は「カビキラー」。いままでその強力な威力のためバスルームにしか使われなかった最終兵器、その最終兵器をトイレにつかうことにしたのでございます。
狙う標的は便器と床との隙間、そして壁と床の角でございます。ダテに毎日掃除をしておりません。狙った標的にピンポイントでカビキラーの泡を命中させていくさまは、まるでゴルゴ13のようでございます。「俺の後ろに立つんじゃねぇ」と言わんばかりにカビキラー放射を続けておりますと、何やら異臭が...そして目がチカチカと...
そう、明らかに健康を害する化学反応が起こっております。あの「まぜるな危険」という名文句の、その危険な状態でございます。匂いはどんどん強烈になってまいります。バスルームならば水をかけて流すことも出来ましょう。ところがトイレの床でございます。どうしようもございません。
その後のワタクシは、まるでスクランブル発進の自衛官のような機敏さで動き回っておりました。玄関そしてすべての窓を開放し、扇風機を持ち出してトイレ内へ新鮮な空気を強制流入、ぞうきん用タオルを数枚ほど濡らしまして、息を殺し目を細め、電光石火のごとくにトイレの床を拭きまくったのでございます。
朝青龍のガッツポーズが、何やら物議を醸し出しております。もうね、いいじゃん。ほっといてあげれば。うれしけりゃガッツポーズぐらいするでしょ。朝青龍に何かと注文をつけたくなるのは分かりますが、その朝青龍の復帰で今回の初場所がひときわ盛り上がったのはまぎれもない事実なのでございます。相撲といえども興業でございます。お客が入ってなんぼ。朝青龍は集客という面で大いに貢献しているわけで、「ガッツポーズぐらいさせてやれよ」と思うわけでございます。
ブラッドピットが来日しております。奥さんや子供さん同伴で、実に家庭的なのでございます。そのブラッドピットが記者会見で、「日本で見物に行くとしたらどこ? 食事に行くとしたらどこ?」と、記者団に逆質問したそうでございます。
記者団の一人が、なんか「京都のお寺」とか「明治神宮」とか、むりやり日本的なところを紹介しておりましたが、ブラッドピット本人は今ひとつシックリ来なかったご様子。もっと意外性のある場所を知りたかったんじゃないでしょうかねぇ。
「もしワタクシがブラッドピットを接待するとしたら」なんてぇことを考えたわけでございます。パチンコ屋とか喜ばないかなぁ? あ〜、でも、子供さんたちにはあまり教育上良くないかも。子供さん達が絶対喜ぶのは、矢島美容室のコンサートかな。矢島美容室のあのキョーレツなオーラは、言葉が分からなくても子供さん達が直感的に喜んでもらえる気がするのでございます。
あと、日本的な娯楽といえば、スーパー銭湯。裸になるのは抵抗があるだろうし、男湯と女湯で別れてしまうのは嫌でしょうから、水着で入れる混浴のところ。大勢でガチャガチャいっしょにお風呂に入るのって、外国の人には新鮮な喜びがあると思うのでございます。
食事に招待するとしたら、回転寿司か焼き肉。お寿司ぐらいは食べたことあるでしょうが、回転寿司は、あまり馴染みがないはず。生魚はダメかもしれないので、その時は焼き肉屋。お肉を自分たちで焼いて食べるという食事、やはり外国人ってあまり縁がないと思うのでございます。