店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
東京のマンションで隣室の女性が殺害されたニュースは、まだ記憶に新しい所でございますが、本日のテレビは、その事件の公判のニュースで持ちきりでございました。犯人は「もう死刑しかありませんね。早く死刑にして下さい」と、言っているようでございます。一方、つい先日には、闇サイトで出会った三人が、帰宅途中の女性を殺害するという名古屋の事件の犯人全員に、死刑判決が出ております。「犯人にまったく反省の色が見えない」という裁判官の言葉が印象的でございました。
「盗んだ」とか「壊した」という犯罪ならば、金銭で償うということも可能でございます。ところが、「殺した」という犯罪には、償う方法がないのでございます。「死をもって償う」とは言いますが、それが根本的解決に至るわけではございません。遺族の悲憤(ひふん)を多少沈め、社会に対する戒めを与える、そういった社会的な影響力を期待するだけの処置でございます。そもそも、「死刑になりたい」と言っている犯人にとっては、死刑は「処罰」としての意味合いも持たないのでございます。
死刑に値するような犯罪が起きたとき、死にたくなるのは犯罪者だけではございません。被害者の遺族はもとより、加害者の家族もその社会的な非難のために死にたいという衝動に追い込まれるようでございます。殺人事件というのは、関係者すべてを不幸にさせる、悲しい犯罪でございます。
そんなニュース報道に起因されたわけではございませんが、映画『誰も守ってくれない』を見てまいりました。殺人事件の犯人側の家族を、その社会的な中傷や攻撃から守るという刑事の物語でございます。事件への中傷は、ある新聞記事をきっかけに犯人の個人情報だけではなく刑事の個人情報までもさらされながら、ネットで炎上してまいります。犯人側の家族を描いた、非常に数少ない映画のひとつでございます。
「オウムで、何かが『タブー』を超えてしまった。戦争でも使わなかったサリンが使われた」(映画パンフレットより)という言葉を借りるならば、「ネットがタブーを超えてしまった。出版・報道などで忌避される『匿名での中傷』が、当たり前のように行われている」と、ワタクシ、申し上げるのでございます。
誰でも「殺人はいけないこと」というのは、“理屈では”分かっております。にもかかわらず人間は時として、殺人事件を起こしてしまいます。精神的に追い込まれたり、幼児体験に問題があったりなど、様々な諸条件が重なり合い、理性の壁を感情が越え、最悪の場合には殺人事件という結果になってしまいます。後から「大変なことをしてしまった」と気付くのではございますが、それは理性の力。人間が理性と感情のバランスを取りながら生きている生き物である限り、殺人事件というものは、可能性としては誰でも起こしうるものなのでございます。
一方、ネットでの中傷を考えますと、匿名で他人を攻撃するというのは、やはりみんな“理屈では”分かっているのでございます。ところが、匿名で何でも書き込める環境が存在いたしますと、時として、“書きたいという感情が理屈を凌駕”してしまうのでございます。このメカニズムは、殺人事件の犯人が殺人を犯してしまうメカニズムとなんら変わらないのでございます。そして、中傷された人の自殺などにも発展する可能性を考えますと、間接的な殺人事件とも言えるのでございます。