店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
最近のマイブームが、コレ。マルちゃんの「甘〜いきつねうどん」。最近は、チョコ味とかショートケーキ味とかの焼きそばが出ておりましたので、ちょいとこの手の商品には警戒心を抱くのでございます。「どうせ、美味しくないんやろ、美味しいわけあらへんがな...ほんまや!」をリアルで行くような、美味しさ。またまたハマっております。
「甘〜い」とはありますが、ワタクシにとってはちょうどいい甘さ。むしろ、ノーマルのきつねうどんは、ちょっと辛い感じがして、食べた後に水が飲みたくなる。ピンクのパッケージなのでかなり警戒しておりましたが、普通の甘口お出汁のおうどんなのでございます。
非常に懐かしい味に感じるのは、子供の頃食べた味に似てるかなぁと思ったのでございますよね。うちの家庭は、ほんと、砂糖好きでございました。いろんなものの味付けが、とにかく甘かった。それでいて、お味噌汁は、いつもかならず濃厚赤だし。味が濃いっていうか両極端というか、甘〜いものと辛〜いものがいつも並んでいる食卓でございました。
「疲れると甘い物が欲しくなる」なんて申しますよね。人間が甘い物を欲するのは、これ、本能なのでございます。糖分というのは、人間にとってのエネルギー源。また、脳が機能するためにも、多くの糖が必要。糖が欠乏するというのは、人間の体にとって死活問題なのでございます。
ただ、過ぎたるは及ばざるがごとし。過剰摂取をいたしますと、これは逆に体にとってはマイナス。人間の体ってのはよく出来ておりまして、過剰になると、そのものに対して食指が動かないような仕組みになっております。うまくバランスが取れるようになっているのでございますね、本来は。
ただ、ここに人の世の七不思議のひとつが。甘い物に関しては、このバランス機能がうまく働かないことが多いようでございますよ。一種の依存症なのでしょうか? 人間の本能よりも、「知性」が生み出す欲望の方が優先してしまうのでしょうか? そう考えると、動物には依存症が有るのかなとか思っちゃいますが、どうなんでしょう? タバコをやめられないチンパンジーとか、見たこと有るのですけどねぇ。
甘さと同じように人がハマりやすいのが、「脂」の魔力。肉の脂はあまり好きではないという人でも、マヨネーズにはハマっていたりする。よく何にでもマヨネーズをかけちゃう人がいらっしゃいますが、味の専門家に言わせると、マヨネーズに引かれる要因は、単に「脂の魔力」に他ならないそうでございます。
ワタクシも以前、マヨネーズ大好きでございました。かなり大量にかけることもございました。しかし、この「単なる脂の魔力」というのを聞いてから、マヨネーズ大量がけはちょっと自重しております。「単なる脂なんだ」って思ったら、あまり食指が動かなくなったのでございますよね。
ワタクシはコラムの中で本を紹介する場合、必ずその本の実物を購入するようにしております。内容を引用するという責任上、それが執筆者への「礼儀」だと思っております。音楽に関しても同様で、やはり紹介する際には自分が購入していること前提でございます。今日は、こういったことに関係したお話。
JASRACという団体がございます。著作権を管理している団体でございますね。その団体が、音楽教室にまで使用料を請求するという話になりまして、いろいろニュースになっております。多くの音楽教室を持っているヤマハや河合楽器は、裁判も辞さないとの構え。そりゃそうですよね、音楽教室にしてみれば、寝耳に水でございますからねぇ。
今までスルーしていたことに急に課金するとなれば、課金される方は納得いかないですよね。音楽教室の形態が大きく変わったというわけではない。これは、JASRACの「思い付き」としか考えられない。で、そのちょっとした思い付きで何十億円ものお金が動くのだから、そう簡単に思いつかれては、回りはたまったもんじゃない。
スマホやPCからもテレビ視聴が可能になった時代に、もはや現状のNHK受信料のシステムというのは現実に即していないと言えます。音楽にも同じ事が言えまして、音楽を購入することも聴くこともすごく手軽になった時代に、旧態依然の著作権のシステムでは、何を課金の対象にするかという線引きが、非常に難しくなっているのでございます。
そこで、ちょっと余談を。最近、保育園を作ろうとすると、地域住民から反対されるという事が多くなっております。それに対して、「その子供達が、将来、あんたらの年金を払ってくれるんだぞ!」と反論した人がおります。
音楽教室の問題も似たようなものがありまして、その教室で学んでいる人達が、将来、音楽を作り出す人になるわけですよね。そして、その人達が作り出した楽曲が、著作権料を生み出す。JASRACは目先のお金に目がくらみ、長期的な展望を失ってないですかねぇ。
学校で「教材」として使う場合は、著作権というのはかなり緩くなっております。これは著作権法でそのように取り決められております。教材選びで教育の場が萎縮するというのは、良くないですよね。同様に、著作権問題で音楽教室が萎縮するということは、音楽産業全体の萎縮につながるという可能性もあるのでございます。
さて、オフィシャルサイト、およびヘブンネットなどでの「出勤スケジュール」の表示ですが、それぞれ特色がございます。オフィシャルサイトでは、「10日分」のスケジュールが確認できます。これは、PC・スマホ・携帯、全部同じでございます。ヘブンネットはPC版は「7日分」の表示なのに、スマホでは「1ヶ月」分の出勤が確認できます。PCとスマホで仕様が違うというのは、ちょっと面白いのでございます。
当店のオフィシャルサイトでも、10日分ではなく1ヶ月分の表示に変更したいとは、以前より思っておりました。PC版はそれほど難しくない。ページを増やしてリンクを張るだけでいいですからね。難しいのはスマホ、そして携帯電話。画面の大きさが限られておりますので、表示方法を工夫をしないと使い勝手が非常に悪くなってしまう。また、表示方法を変えるというのは、プログラミングの大きな変更を伴うのでございます。
先日、JASRAC が音楽教室に請求するというお話をいたしました。「教材として使う場合は、オリジナルを購入すべき」という考えに賛同するご意見も頂いたりしております。今回の件では、個人の音楽教室は対象にしないとのお話ですよね。それで、いろいろ思い出したことをお話しいたしますね。
まぁ、今はこんなですが、若い頃は音楽家を目指しておりました。個人の先生のレッスンもいろいろ受けておりました。個人の先生は、ほんと、大量のレコードやCDを購入しております。ミュージシャンにとっては、個人の音楽教室というのはお得意様なのでございます。
また、レッスンで使った曲は、生徒側も購入する場合が多い。楽譜を購入し、原曲も購入する。シンガーソングライターにとっては、二重に美味しい市場でございます。レッスンの場というのは、それなりに需要があるのでございます。
ダンススタジオにも通っておりましたが、ダンスの先生も、いつも大量のCDを持ち歩いておりましたね。本当に、ゴッソリと持っておりました。また、ダンスの生徒側は、音楽畑以上にオリジナルを購入する割合は高いのではないでしょうか。自分で練習する際、原曲を聞きながらやりたいですからね。
「教室」の場というのは、音楽を「販売する」ということに関しては、そこそこの需要があるように思えます。売上に貢献している場所ですから、まぁ使用料を徴収するということになっても、格安料金にしてあげて欲しいですよねぇ。それならば、まぁまぁ現場も納得できるのではないでしょうか。
こんな興味深いお話がございます。細かい部分は忘れちゃいましたが、あるアーティストが、自分の店で、自分の作った曲を弾き語りしていたら、JASRAC から請求が来たとのこと。ウ〜ン、確かに使用料が発生する事案ではございますが、「自分の曲」に関する特例みたいな規則はないのでしょうか?
デジタルとかネット配信とか、音楽の聴き方が大きく変わってきて、法律の方がまだまだ追いついていないのかも知れませんよね。その不備を突いて、iTunes のように音楽の配信では、あっという間にアメリカに主導権を握らせてしまいました。テレビのネット配信も、最近やっと法律が変わったところで、まだまだこれからのお話。
10年くらい前、本業の傍ら、副業で飲食店をやりたいと魔が差したことがございました(笑)。店内にピアノを置き、弾き語りをお客に聴かせたらどれくらいの使用料になるか調べたことがございます。曲目はほぼ関係なく、お店の規模でほとんど決まったように記憶しております。払えない金額ではないですが、まぁまぁお高い金額になった覚えがございますね。
たまたまテレビの電源を入れましたら、昔の古〜いドラマを放送しておりました。NHK制作の『赤ひげ』という医療時代劇でございます。あおい輝彦が、まぁ何ともお若い。そして44年前のドラマにもかかわらず、最新のドラマのような鮮明でコントラストの効いた映像。NHKの映像修復技術、恐るべし!
「まったり」という語が使われなくなって久しいですが、そのまったりという表現が実に似つかわしい雰囲気のドラマでございました。昔はこんな、ノンビリしたテンポでドラマを作成していたのですよね。ドラマでも舞台でも、「間(ま)を開ける」というのはとんでもなく勇気がいります。と、同時に、その間を支える緊張感や演技力が必要となってまいります。
結果、十分な表現力を持ってした「まったり」には、重厚感や深みが出てまいります。最近のドラマがアップテンポなのは、勇気が持てないのかなぁ。あるいは、作り込む十分な時間が現場に許されていないか。または、現場の人達がこういった「まったり」に憧れを持っていないということかも。
さらに、これもたまたまなのですが、黒澤明監督の『夢』が放送されておりまして、こちらもしっかり見ちゃいました。やはり「まったり」とした流れ。「間」を存分にというか恐くなるほどの長い間を駆使しておりました。黒澤明監督の「腹の据わった演出」を感じ取れるのでございます。
さて、ここからが本題。紹介した2作品、どちらにも冒頭に「不適切な表現がありますが、原作の意図を尊重してウンヌン」というただし書きが入っております。確かに『赤ひげ」では「kichigai」というセリフが音消しもなく堂々と語られておりました。『夢』では、やはり、原発爆発のくだりがいろいろと問題のありそうなセリフ満載でございました。
この様な、いろいろ面倒になりそうな表現というのは、ちょっと前は大胆にカットされたり、ピー音で消されたりしておりました。最近は、カットせず、ただし書きを入れた上でオリジナルのまま放送されることが多いようでございます。
そこで、ワタクシ、ちょっと考えた。今、現在、多く制作されているドラマというのは、このただし書きを見たことない。というか、後からただし書きを入れなくてもいいように、「無難」な表現でとどめているということ? ドラマが冒険をしなくなったということなのでしょうか?
本日の午前中、お店でNTTの工事が入っておりました。光回線をプレミアムちゅうのからネクストっていうのに変えるというので、技術者の方がルーターなどを交換に参りました。当店の光回線には、パソコンなどのネット通信とUSENのチューナーが繋がっております。今や、USENもネット接続の時代なのでございます。
さて、作業も終了し、パソコンの方は、無事に使えるように。回線も太くなり、今までより快調に。しかし、USENの方が音が出ない。技術者の方が時間をかけていろいろ設定を変えて頑張るも、どうもダメ。時間も長くなって申し訳なくなってきたので、ワタクシがUSENのサービスセンターへ問い合わせる事にして、NTTの方には帰ってもらいました。
ネット関係の工事が入ると、だいたいいつも、USENが不調になるのでございます。USENのチューナー、謎が多すぎ。その謎のひとつに、インターネットプロバイダーとの接続を切っているときでも、USENは鳴り続けてるというのがございます。チューナーとUSEN本部のサーバーが直接接続しているみたいで、そのところの仕組みも、謎って言えば謎。それ故に、NTTの技術者の人も、どこでトラブっているのかが分からないようでございます。
ワタクシ、さっそくUSENのサービスセンターへ電突いたしました。いや、電突って言っても、穏やかに穏やかに話しましたよ。すると、ひとつの謎が解明。どうも、USENのサーバーにNTTの「お客さまID」というのを登録しないといけないそうでございます。
このお客さまIDというのは、各回線ごとに割り振られているID番号でございます。USENのサーバーは、この回線のIDを確認して、チューナーの置かれている所在地を特定してから音楽配信しているみたいでございます。
ですので、今回、NTTの工事によってその「お客さまID」が変わってしまっております。それで、USENのサーバーとチューナーが接続出来なかったというのが真相の様でございます。サービスセンターのオネェさんに新しいお客さまIDを電話で告げて、これですぐに復活か? と、思いきや、世の中、いや、USENそんなに甘くはなかった。
「設定変更に、1〜2営業日かかります」とのオネェさんの返事。いや、木村拓哉じゃねぇけと、「チョ、チョ、待てよ!」と言いたくなるのでございます。業務用の機材で、その「1〜2営業日」って何よ。1〜2時間の聞き間違いかとも思いましたが、間違いなく1〜2営業日。もうね、信じらんない。
今や、電話料金の滞納でさえ、コンビニで支払った直後に回線が復活する世の中。USENのサーバーの設定ごときで何日もかかるというのは、もう明らかに時代錯誤。というか、何かしらの「ウラ取り」をしている可能性もございます。NTTに問い合わせて、その「お客さまID」の所在地の確認をしているのでしょうか? だとすると、『HERO』の「久利生 公平」もビックリなのでございます。
ここで名古屋薫、考えた。「はは〜ん、これは、著作権が絡んでないかな?」と。つまり、USENで流れる曲の著作権使用料は、USENの会社が支払っております。その際、多分、接続されているチューナーの台数で金額が決まってきているはず。重要な項目ですので、チューナーが勝手に一人歩きされては困るでしょう。そこでチェックが厳しい、と。
あるいは、USENとユーザーであるワタクシとの契約内容上での問題かも。チューナーがネット接続ということは、全世界、ネット接続出来ればどこででもそのチューナーが使えてしまうということになる。これが、契約上、いろいろ問題があって、結局、チューナーの設置場所を特定する必要があるとか。まぁ、こちらの原因の方が濃厚でしょうねぇ。
さて、お店のUSENが使えないというのは困るのでございます。幸い、3台あるチューナーの中で、今回影響を受けたのは2台。そのうちの1台は最新型でしたので、「バックアップ再生」という機能がありまして、サーバーとの接続が切れていても、チューナー内蔵の音楽を流し続ける機能がございました。
問題は、残りの1台。これがVIPルームに設置してある。このチューナーがウンともスンとも言わない。仕方が無いので、ワタクシのiPodをエンドレス再生いたしまして、それを繋いで音を出しております。う〜ん、著作権的には、アウト。これが、冒頭で述べました「当事者」という意味なのでございます。
ヒッチコックの映画に『サイコ』というのがございます。この題名は「サイコパス」という語が語源。サイコパスって言いますと「自己中心的」「冷酷」なんてイメージが有りますが、ただ、多くの経営者がこの「サイコパス傾向」を持っていると言われております。経営者には必須の要素なんて言われ方もいたします。
ワタクシもお店をひとつ背負っていることから、経営者として、このサイコパス傾向に非常に憧れた時期がございます。憧れたというのは、自分がこの要素をあまり持っていないということに気づいているからでございますよね。経営者に必須の要素と言われ、持ちたいと憧れたわけでございます。
ところがですね、自分のカラーにないものを演じようとしても、そうそうシックリくるわけではない。様にならないので、事が裏目に出る事もある。そんなこんな有りまして、今はサイコパス傾向などに憧れず、自分のやり方でやろうと思っております。自分に合ったやり方、それが一番だったりいたします。
さて、お話の主題は、安倍首相とトランプさん。このトランプさんこそ、サイコパス傾向の実地見本のような存在。さすが、トップクラスの財を成した経営者でございます。そのトランプさんと安倍首相が近々お話をするとのこと。いろいろ心配だったりいたします。
トランプさんの爆弾発言が続く中、各国の代表も歯に衣着せぬ物言いをしております。メキシコなんか、会談の予定を反故にしちゃった。この状況の中で、安倍さんがノコノコ会いに行くってのも、どうかなぁと思ったりいたします。巌流島の戦いよろしく、相手を焦らすなんて戦法もアリなんじゃないかとも思うのですが、まぁ仕方ない。
ここで、安倍首相がトランプさんと対等に渡り合うためには、安倍首相にどれほどのサイコパス傾向が有るかということになってまいります。政界で頂点に登りつめた方ですから、まぁそれなりにサイコパス傾向を持っているとは思いますが、相手は筋金入りのサイコパス。中途半端なことをやると、かえって痛手を負うということにもなりかねないのでございます。
トランプさんのやり方ってのは、元大阪市長の橋下さんのやり方に似ておりまして、まず過激な発言で注目させる。マスコミを存分に利用するわけでございます。トランプさんの場合は、それをツイッターでやらかしてる。先手を取り、自分のイメージで話題作りすることで、ある程度の「主導権」を握るわけでございます。
その後が、弁護士の橋下さんとビジネスマンのトランプさんの違いが出てくる。橋下さんは理論で論破しようとする。弁護士ですからね。一方トランプさんは「駆け引き」でやって来る。ここにビジネスマンらしさが出てくるのでございます。
トランプさん、あらかじめ「頑固で交渉が難しい」というイメージを相手に持たせております。そして、いきなり高い条件を相手に突きつける。相手は条件を下げようと交渉してくる。そこでチョイト条件を引っ込めて折り合いを付ける。
交渉相手は「あのトランプを妥協させてやった」と満足げに帰って行きますが、トランプさんにしてみれば、最初からの予定行動。そして相手が「トランプ、たいしたことねぇな」なんて奢った考え方をしてくれれば、それはトランプさんにとっては貴重なビジネスチャンスなのでございます。
まぁ、トランプさんの顔を見ながら、こんな感じのビジネスをしているではないかなぁなんて思った次第でございます。このハッタリかました交渉のやり方、これは、そう、ものを値切るときのやり方とそっくり。日本人ってのは「値切る」ということがあまり日常的ではございません。そこがチョイト心配なのでございます。値切り上手な大阪のオバチャンを横に付けて会談に臨むわけにもいきませんしねぇ(笑)。
決算報告をもらいますと、前年とかさらにその前の年とかと比較するわけでございますよね。2016年は、ほんとよくお客さまに来て頂きました。数字もそれをよく表しております。と、同時に、昨年は割引も大々的にかけておりましたので、終わってみれば平年並みといった感じでございます。う〜ん、複雑な心境でございます。
様々なものの市場価格が下がりつつある昨今で、この業界の市場価格も、ここ10年で下がって来た傾向がございます。その流れを受けて、当店でも割引を増やしてきたわけでございます。この割引率と利益率のバランス、いろんな業界の人が、今、苦労しているのでしょうねぇ。
書籍なども、日本では再販制度があって定価を崩せないシステムになっております。ところが、Amazon のような外資系の企業が割引価格で販売を初めて、それでちょっと問題になった時期もございましたよね。しかし、書店はそれに価格で対応出来ない。ですので、陳列方法などに工夫を凝らし、今の書店は涙ぐましい努力をしております。
あと、定価を崩せない業種と言えば、コンビニ。一部のコンビニが賞味期限間近の食品を割引しようとして、コンビニ本部と揉め、裁判沙汰にまでなった事件がございました。コンビニも競争が激しいらしく、各店舗、涙ぐましい努力をしております。
さてさて、風俗店の定価は有るのでしょうか? 「相場」というものはございます。しかし、基本的に「お店の言い値」。他のお店とのバランスを考えたりして、決まる事が多いと思います。ただ、お店側がそれほど自由に設定できない事情がある。コンパニオンの「取り分」というのが必ず関わってくるからでございます。
遊び上手、遊び下手、そんなお客さまがいらっしゃいます。上手なお客さまは、コンパニオンの気分を乗せるのが上手い。遊びは「お客さまとコンパニオンとの共同作業」だということをよく分かっていらっしゃるお客さまです。コンパニオンも頑張って、そのお客さまを自分のリピーターにしようと思うのでございます。
「お金を払って、どうしてコンパニオンの機嫌を取らなきゃいけないんだ」と思われるかもしれませんが、そこまで大げさな話ではございません。ちょっとしたデリカシーがあればいいのでございます。デリカシーとは「心づかい」のことでございます。この心づかいのちょっとした違いで、上手だったり下手になったりいたします。
デリカシーのない行いとはどういうことか。それは、コンパニオンが一瞬にして引いてしまうような話題をわざわざ切り出す行いでございます。どんな話題がそれに相当するかと申しますと、まず「美容整形」の話、「他のコンパニオンの話」、「他店の話」、「ネットの話」といったところでございます。
人気商売というもの、大なり小なり、美容整形のお世話になっている事が多いものでございます。容貌を大きく変えるものから、コラーゲンをほんのちょっと注射するだけのような美容的なものまでございます。その程度にかかわらず、やはり整形の話題というのはコンパニオンは気持ちが引きます。話題にすべきではございません。
また、風俗嬢というのは非常にストレスの溜まるお仕事でございます。コンパニオンはみな、ストレスを溜めないように、「あえて見ないようにしている」ものがいくつかございます。他のコンパニオンや他店の話でございます。自分が常に他のコンパニオンと比較されているというのは、みんな重々承知しております。しかし、明からさまに話題に出されると、まぁ、引きますよね。
さらに、ネット。これがやっかい。ネットにはストレスが溜まる事しか書いてございません。ですので、ベテランのコンパニオンはほぼ例外なく、ネットの風俗情報的な場所は覗きに行きません。そうやって自衛しているにも関わらず、不用意にコンパニオンにその話題をしてしまうお客さまがいらっしゃいます。やはり、コンパニオンはどん引きになるのでございます。
お客さまに「説教」をして、お客さまを教育しようとする気丈夫なコンパニオンもおります。また、「これがこの方の遊び方なのね」と納得し、にこやかに全てを飲み込んで応対するコンパニオンもおります。さらに、あえて無愛想にして、「好かれないように努力する」コンパニオンもございます。
お客さま側の話、コンパニオン側の話をいたしましたが、お客さまとコンパニオンとの関係は、これほど単純ではございません。お客さまの中には、「わざわざコンパニオンに叱られたいので、コンパニオンが嫌がることを話す(する)」という方もいらっしゃるから、世の中難しい。
お話の話題が少なく、たまたま自分が知っている事を話したら、それが遊び下手のドツボにはまってしまっているお客さまとかもいらっしゃいます。そういう方は、悪気はないのですよね。コンパニオンの教育によって、遊び上手に変わる可能性もございます。
雪がチラホラ舞いましたが、大事には至りませんでしたね。都市部では、ほんの少しの積雪で大騒ぎになります。この程度の雪で、助かったのでございます。さて、その雪で、子供の頃のこんなことを思い出したのでございます。
小学生の頃、親を拝み倒して顕微鏡を買ってもらったことがございます。小さい顕微鏡でございましたが、光学メーカーが出しているちゃんとしたもの。当時のは下に鏡が付いていて、被写体の下から光を当てるしくみになっておりました。ですので、光を透過するものしかうまく見えませんでしたが、それでも片っ端から色々なものを拡大して見ておりました。
そんな顕微鏡小学生の日々に、ある日、一大チャンスが訪れたのでございます。名古屋では珍しい雪が降ったのでございます。図鑑でしか見た事がない「雪の結晶」を、自分の顕微鏡で見られる。もうね、興奮気味に、外へ出て行って、雪を取りに行ったのでございます。
室内に運んだ雪を、急ぎプレパレーションガラスに乗せて、顕微鏡で覗く。慌ててピントを合わせるも、何も見えない。ふとプレパレーションガラスを見てみますと、ガラスの上には水滴しか残っておりません。室内の気温で、あっという間に解けてしまったようでございます。
そこで、顕微鏡を持って、外へ。外で何度か試しているうちに、顕微鏡もガラスも冷えてきて、雪が解けにくくなってまいりました。雪が多すぎてもダメ。絶妙な少量の雪をガラスに乗せ、ピントを探りながらガラスの位置合わせをする。位置とピントが全て合致した瞬間、丸い視野の中に、一瞬、雪の結晶が見えたのでございます。
図鑑で見るような、きれいなきれいな結晶でございました。ほんと、雪印のロゴ、そのまんまの形。興奮した次の瞬間、丸い視野の中で、その結晶は溶けていったのでございます。1秒もなかった。0.5秒くらいでしょうか、そのきれいな結晶が見えたのは。
その時は、寒さに負けて、それで室内に戻ってしまいました。雪の結晶を顕微鏡で確認したのは、それが最初で最後。その顕微鏡も引っ越しか何かの際に失ったまま。もう何十年も経過しておりますが、今だにこの雪の結晶の出来事は、はっきりと思い出されるのでございます。
子供心に感動したのは、雪の結晶の美しさもさることながら、それが解けていくときの儚(はかな)さを目撃したからではないでしょうかねぇ。寒い野外で、何度も何度も試して、やっとやっと目撃できたものが、ほんの一瞬で消えていってしまった。その消えていく瞬間が、なんとも言えず美しく儚かったのだと思うのでございます。
若い頃から音楽や舞台に携わってきたワタクシは、「人を感動させるツボ」というのを考え続けておりました。幼少期の頃は、自分で考えた踊りを音楽に合わせて踊ると、大人が大喜びすることに気がつきました。子供の考える踊りですから、稚拙でございます。それでも、大人の喜ぶ顔が、快感でございました。
青春期、ワタクシが楽器を演奏すると、聞いていた人が「固まる」というのをよく経験いたしました。とりわけ賞賛を望んでいたわけでもなかったので、その時は気にも留めておりませんでした。あるいは、明からさまに嫉妬の表情をする人もおりました。でも、「ワタクシの演奏なんか誰も気にしてない」と思い込んでおりましたので、やはり、意味が分かりませんでした。
ショーパブで働き始めた頃、ダンスのレッスンに通うようになりました。レッスンを初めて数年後のある時期から、ダンスの先生が急に厳しくなりました。後から思えば、「生徒」から「弟子」に昇格したのだと気がつきましたが、その時、ワタクシの中では、その先生を見下す心が芽生えておりました。
先生を見下す心、これは、自分の中で表現したいものと先生のそれとのギャップから生じるものでございます。「自分がやりたいのはコレじゃない」という気持ちが沸き上がりますと、「この人の下にいちゃいけない」という考えに至るのでございます。それが、「見下す」という傲慢にまで増長していくのでございます。
この傲慢は、音楽のレッスンでも起こりました。音楽の先生、ダンス教室をいろいろ変えてみるものの、「生徒」としか扱われないうちは、冒頭で申し上げた「固まる」という現象が起きました。この時点になって、その固まるという現象は「感動」なんだと気づくようになりました。「私は人を感動させている」という実感が湧くとともに、ワタクシに感動して固まっているその先生方には、やはりワタクシの中に見下すという感情が湧いてまいりました。
本気で人を感動させると、その人は固まります。そして、何か美味しいスイーツでも食べたような微笑みを呈しております。「私は人を感動させられる人間なんだ」という自覚を持ちますと、今度は、その自覚との戦いが始まったのでございます。なぜなら、そう自覚した瞬間に、人を感動させられなくなるからでございます。
スポーツ選手に「ゾーン」という体験があるそうでございます。そのゾーン中は、精神が集中し、プレッシャーもなく、非常に高い能力が出せるそうでございます。しかし、ほんのちょっとした雑念が、そのゾーン領域から逸脱させてしまうそうでございます。ワタクシの中にも、そのゾーン体験と同じような感覚がございました。意識すると、感動させる能力が逃げていくのでございます。
その後、ミュージカルの勉強をしている頃、ワタクシは、歌や、演技や、ダンスのレッスンするさいには、いつもその「自覚」との戦いをしておりました。優越感と劣等感、雑念と無心、そういったものがパイ生地のように何層も積み重なった感情が、心の中にうずめいておりました。そして、「天狗」と「卑屈」の両者を行ったり来たりする事になるのでございます。
その後、ワタクシの人生の大きな岐路がやってまいります。東京の事務所のオーデションに受かり、そこの研究生になれたのでございます。そして、幸運にも時はバブルの終焉ちょっと前の時期。お金が有り余っている時期でございましたので、研究生と言えども相対する先生方は日本のトップクラスの人達ばかり。実際に日本の芸能界の現場で活躍されている方々ばかりでございました。
研究生という立場ですので、教える方も完全に「師匠と弟子」モードでございます。その先生方、さすがプロでございます。ワタクシの中の「葛藤」を完璧に見抜いておりました。徹底的に、ワタクシの鼻っ柱を折るという指導に徹しておりました。動物の調教と同じでございますね。まず上位のものが下位の首に噛みつく。上下関係がはっきりして初めて、「調教」が始まるのでございます。
その後、実際の舞台に立つようになっても、「プロの洗礼」を受ける事になるのでございます。出演者すべてが、「自分はこう表現したい」というものを持っている。もちろん、脚本や演出による「縛り」は当然ございます。その縛りの中で、各自が自分の主張を前面に出そうという「戦い」が舞台の上で行われるのでございます。
舞台に立ち続けるというのは、それなりのプレッシャーでございます。「自分の居場所がなくなるのではないか」という不安は、いつも付きまといます。そして「自分は人を感動させられているのか」という疑心も、常に沸き上がります。逆に、そのような不安や疑心から翻(ひるがえ)って増長側に至ったとき、感動の「ゾーン」が消えていくというジレンマもございます。
さらに、ドラマでも映画でも舞台でも、大勢のキャストやスタッフが携わっております。その大勢の中のほんのひとつの「駒」として動いていくうちに、なにか巨大な綿の中で手足を動かしているような、そんな手応えの無さも感じてくるものでございます。それは、本来、自分がやりたかった事とはかけ離れている事が多いというのも、要因のひとつでございましょう。自分の中で完結している芸術でない限り、この「個」と「全体」との葛藤はなくならないのでございます。
そんな不安や虚無感の中でも、なんとか芸能界に残りたいと思う人は大勢いらっしゃいます。それは、大きな「全体」の中の「個」でしかないにも関わらず、その「個」が「世界の中で自分にしか表現できないもの」を訴える事が出来るからではないでしょうか。その「自分にしか出来ないもの」を守り通すため、日々、不安や疑心や葛藤を持ちながらも、芸能界に憧れ、自分の場所を確保し続けようとする芸能人の方々が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
最近、あっさりと「引退」してしまう芸能人の方が増えております。確かに、週刊誌などでプライベートを晒されてしまうようなことがあると、「そこまで犠牲にして残りたい居場所でもない」と思うのかもしれません。あるいは、「犠牲を払ってでも守りたい『個』がない」ということなのかもしれません。
成宮寛貴さんや清水富美加さんの唐突な「引退」の陰には、本人でしか分からない事情が有ったのかもしれません。あるいは、守り通す「個」を見いだす前に、プレッシャーばかりが襲いかかったのかもしれません。残念ですけど、本人の強い意志があるようですので、仕方がないですよね。
芸能界ってのは、不道徳で、無法地帯で、快楽主義で、かつストイックで、そんなハチャメチャな場所でいいと思いますよ。基本的に、芸術的意欲の下に「楽して儲けたい」というモチベーションを持った人達の集まりでございますから。
朝の情報番組で、ファックスを使っているのは世界中で日本くらいだって言ってました。いやぁ、ワタクシのお店にも、いまだにファックスはございますしねぇ。ただ、4年ほど前にお店の電話をNTTのビジネスホンに入れ替えましたが、その際、ファックスの接続はチョイト面倒くさかった覚えがございます。”業界的”には、ファックスは無くしていきたい方向なのかもですよね。
うちのお店でファックスを使っていたのは、広告原稿のやり取りがメインでございましたね。それも、メールで確認するようになってからは、ほとんど使わなくなっております。でも、家電量販店では、まだまだファックスがたくさん陳列されている様子。一般家庭では、需要があるのですよね。
30年前、卸売市場で働いていたとき、注文のほぼ全てがファックスでございました。紙に太字のマジックで走り書きしたものが、深夜に大量に送られてきておりました。今はどうなのでしょうねぇ? でも、昔ながらの八百屋や魚屋さんなどは、今だにマジックの殴り書きファックスで注文しているような気がいたします。なんか、その方がイメージが有っている感じがいたしますから。いえ、根拠はございません。
世界的にレガシー(遺産)となりつつあるファックスが日本で生きながらえている理由は、なんとなくですが、2つほど有るように思えます。ひとつに、パソコンやスマホの日本語変換がネックになっているのではないでしょうか? 特に高齢者。この事情は、変換の必要が無いアルファベット圏の人達には、理解が難しいでしょうねぇ。
もうひとつの理由が、「手書き」を重要視する文化。これは「書道」と「レタリング」の似て非なるものを比較する事で、分かるのではないでしょうか。欧米での「レタリング」というのは、”手書きで清書する”という技法のこと。つまり、あくまでも目標は活字の美しさを追求しており、文字の持つ「記号」としての機能を捨てておりません。
逆に、「書道」は、明らかに「絵画」の世界。記号としての機能よりも、「形としての芸術性」が優先されております。そして日本人は、その手書きの向こう側に「書いた人の“心”」を読み取る習慣が付いております。文字を記号としてしか使わない欧米人からすると、文字を絵画として鑑賞し、その作者の心を読み取ろうとする日本人の感覚、理解しがいでしょうねぇ。
欧米人が日本に来てファックス以外に驚くのが、この「手書き文化」だそうでございます。履歴書とか手書きにこだわる企業は多い。領収書も手書きのものをわざわざ別に用意している店舗が多い。それでなくても、漢字・ひらがな・カタカナ・英数字と混沌としている日本語の文字環境。さらに手書きを要求されるというのは、ハードルが高いでしょう。
この手書き文化を受けて、やはり日本では「手帳」を使う割合が高いそうでございます。文房具店へ行くと、様々な様式の手帳が溢れかえっております。さらに気になるのが、その手帳に貼る小さなシールが、これまた棚に溢れかえるように用意されている事。日本の手帳は、その使い方において独自の進化を遂げているようでございます。
このコラムは、パソコンのキーボードから直接入力しております。しかし、ネタを繰る段階、つまりアイデアを絞っている段階では、必ず紙に手書きでございます。一時期、それもパソコンでやろうと思いましたが、効率が悪すぎる。それで、アイデアを練っている段階では、手書きの走り書きでやっております。
パソコンの何が効率が悪いかと言いますと、「余白」が使えないという問題。紙ですと、大事な項目はまん中に大きく書き、それに関連する小さな項目を、余白に小さく書いていくということができる。もちろん、パソコンでこれを実現するソフトはございますが、手書きの自由度に比べたら雲泥の差なのでございます。
また、ワタクシ、手書きで走り書きをしているとき、自分では無意識のうちに、その走り書きしている文字を口ずさんでおります。この「口ずさむ」という行動が、結構重要。これをやると、アイデアが出やすくなる。次の文章が出やすくなる。文章がリズムに乗りやすい。いい事づくめなのでございます。
アイデアが出ないときは、考えながら歩き回ります。これも効果的。以前は、スポーツジムでウォーキングをしているときに、よくいろいろなアイデアが浮かんで来たものでございます。「考える」という作業は、体を軽く動かしている時の方が、出やすいようでございます。何かしら脳みそに血液がたくさん行くとか、そんな理由があるのでしょうか、ちょいと不思議なのでございます。
話がそれましたね。日本人の手書き文化、これは残したいですよね。風鈴の音を聞いて「夏」を連想したり、苔を見て「時間の経過」に思いを馳せたり、文字を見てその人の「心」をうかがい知る。こういった「おぼろげな連想」は日本人が得意とする分野。
問題は、このぽっかり空いた空洞部分。ここが、超問題。歯の根っこ部分というのは、薄皮1枚下に神経が通っておりますのでトッテモ敏感。そこが露出しておりますので、熱い・冷たい・寒いなんて刺激を、もろに受けてしまうのでございます。
で、治療でございます。そこで、なんと驚きの治療法! この根っこが露出している歯の神経を抜いてしまいましょうとのこと。ま、まぁ、神経を抜いてしまえば痛くなくなるのはよく分かるのでございますけどね、「痛み」というのは人体が本来持っている重要な危険回避システム。それでいいのか? と、思いつつも、目の前の先生に運命を委ねるしかないのでございます。もうね、診察台で横になったまま、なすがママ、きゅうりがパパなのでございます。
しかも、この歯は既に王冠を被っている。クラウンというやつでございますね。つまり、金属で被せているのでございます。その金属の上から穴を開けて神経を抜いてしまうというから、なんともな荒技。しかも、奥歯というもの、アニメの図を見ていただいても分かるように、しっかりとした2本の足を歯茎の中に忍ばせております。この2本の足の両方に、神経が通っている。これを両方とも抜く必要があるわけでございます。
実際にどんな処置が行われていたのかは、見る術(すべ)もない。目を開けたところで、のぞき込む先生の顔が見えるだけ。目を閉じ、手すりをガッシリと掴み、足は力みで突っ張り、ただひたすら、処置が終わるのを待っておりました。
冠に空けた小さな穴から、2つの神経へ細い針を誘導させなくてはなりません。「スゴ技!」なのかどうかは知りませんが、細かい作業、先生ありがとうなのでございます。処置の途中で、「ここで、レントゲン撮りますね」の先生の声。「口は絶対に閉じないでね」との注意も。この理由は、後から分かるのでございます。
「桑子真帆アナウンサー」、ブラタモリで絶妙なボケと笑顔を見せ、大物タモリとの名コンビを見せるも、夜のニュースへ配属。そして、新年度からは夜9時のニュースへと大出世。やはり、『ブラタモリ』は女子アナの登竜門なのでございますね。
『朝イチ』の顔は、有働さん・イノッチのまま。有働さん、フリーの噂なんかもありましたが、どうなんでしょう? 「ハドソン川の奇跡」で知られる旅客機着水が起きた時、たまたま偶然にそのハドソン川に居たという強運の持ち主。有働さんは、持ってる気がします。
一方、メインが不動でサブのアナウンサーが変わった番組がいくつか。『スゴ技!』『所さん!大変です』『100分de名著』といったところ。やはり、アナウンサーに経験を積むためか? キャバクラの系列店などですと、ボーイと女の子がデキちゃわないようにコロコロと配属を変えますが、まぁ、そういう意味ではございませんよね、(三津谷寛治の振りで)NHKなんで(笑)。
キャスターの一方が変わって興味深いのが、『ららら♪クラシック』。男性の方が「高橋克典」さんに変わりました。いいですねぇ。前任の「石田衣良」には申し訳ないですが、石田さんには作家独自の視点というのが少なかった。それと、どうも番組の顔の加羽沢さんが、石田さんを生理的に受け付けない感じだったのが言葉の端々から感じ取れてしまっていた。もしかしたら、高橋さんは加羽沢さんの”好み”なのかな? まぁ、ゲスの勘ぐりはやめましょう。
最後に、注目なのが、『クローズアップ現代+』の武田真一アナウンサー。インタビューで「多様な見方を提示することで民主主義を機能させることが大事」と答えておりますが、この番組は過去にいろいろやらかしております。その反省から出た言葉なのでしょうか? いや、またゲスしちゃいましたね。失敬、失敬。
毎日新聞の記事から。静岡県湖西市の市役所が、ふるさと納税関連の書類を全国の各自治体に送る際に、マイナンバーを「流出」させてしまったとのこと。その数、1992人分。もしこれが本当の「流出」ならば、大問題なのでございます。
事実は、表計算ソフトで発送地域順に並べ替えるときに、範囲指定を誤ったために、個人情報とマイナンバーの並びがバラバラになってしまったとのこと。つまり、1992人分の書類のマイナンバーが単純にデタラメな数字になってしまったというだけの事。これを「流出」と書いてしまう新聞にも、少し悪意を感じるのでございます。
この「マイナンバー」というもの、ちょっと考えてみましょうか。お国は「他人に知られるな」と注意しております。いや、でも、その他人に知られては困るような番号が、マイナンバーカードには堂々と記載されてる。ご丁寧にQRコードなんかもついてる。う〜む、不可解なり。
さらに、レンタルビデオ店などで本人確認する場合、店員が番号を確認するのはOK。でも、その番号をコピー機で複写するのはNGとか。でも、ビデオ店などが身分証明書をコピーするのは当たり前。結局、マイナンバーカードと別の身分証明書を2つ掲示するという話になるのでございます。
まず、「人に知られちゃいけない」というのならば、それは「暗証番号」の類。マイナンバーを暗証番号と考えると、いろいろ納得できてくるのでございます。でも、普通の暗証番号は4〜6桁ほど。どうしてマイナンバーは12桁も必要なのかという疑問も湧いてくる。
普通の暗証番号が「個人情報→暗証番号」という一方通行の参照なのに対して、マイナンバーは「ナンバー→個人情報」という逆方向の参照も必要となってくる。ですので、ナンバーが一意的(いちいてき)である必要があるからでございますよね。
今度は逆に、「単なる登録番号」として考えてみるのでございます。するとマイナンバーは、「銀行口座番号」と同じになる。すると、重要な操作をする場合には登録番号とは別に「暗証番号」が必要になってくるのが、容易に想像できますよね。マイナンバーカードでも、別に身分証明書も掲示させるのは、この理屈なのでございます。
さてさて、何となくマイナンバーの過渡期ぐあいが分かってまいりました。国民を通し番号で管理するというのは、倫理的な問題は取りあえず置いといて、事務的には非常に合理的でございます。しかし、本人確認には身分証明書を掲示させるという旧態依然な方法を用いております。この、最新のシステムに旧態依然な確認方法が混在している事が、マイナンバーのモヤモヤ感を醸し出しているのでございます。
ここで、アメリカの社会保障番号と比較してみましょうか。アメリカでは古くから「社会保障番号」を個人特定のIDとして利用しております。その番号だけで個人が特定されますので、多くのアメリカ人はその番号を暗記するなどして、大事に管理しております。
しかし、番号だけによる確認ですので「成りすまし」による犯罪が後を絶たないのでございます。このようなアメリカの事例を受けて、日本のマイナンバーはややこしい仕様になっちゃったのでございましょう。まぁ、過渡期ですので、いろいろシステムが落ち着いて、人々が慣れてきて、十分に活用されるにはあと10年くらいかかるのではないでしょうか?
いっそ、こんなのはどうでしょう? マイナンバーを16〜18桁にして、頭の12桁がマイナンバー。13桁以降は「暗証番号」にするというもの。暗証番号と明示的になっていれば、みんな扱いに慎重になるはず。さらに、もしマイナンバーが知られてしまっても、暗証番号まで知られなければ全く問題が無いのでございます。
暗証番号の入力は、よくあるテンキーでコッソリ入力する方式でいいですよね。あの方式なら、コンビニのレジなどで扱う事も出来る。今は身分証明書の掲示とかあるから、役所以外で使える場所って限られてくるのではないですか。と、考えると、これはクレジットカードやキャッシュカードと同じシステム。
さぁさぁ、ここまで考えてくると、さらなるアイデアが浮かんでまいります。マイナンバーという特別なシステムを立ち上げるのではなく、既存のクレジットカードのシステムに乗っかれば良かったのでは? で、次の様なアイデアに結びつくのでございます。
まず、国営のクレジットカードを立ち上げる。これは、簡単。そして、マイナンバーの発行の代わりに、この国営クレジットカードへの加入を勧める。この時に、「国営クレジットカードは1人1枚」を徹底させる、ここ、重要。後は、確定申告の際など、その国営クレジットカードの番号を使うのでございます。
顔写真も付けとけば、身分証明書の代わりになる。キャッシュカードでは当たり前の生体認証を組み込むのも容易なこと。クレジット機能を付ける事が出来れば、ますます便利。まぁ、国営ですので、どんなクレジットになるのかは想像つきませんけどね(笑)。
お店のフロントに、「ブレス・ストリップス」なるものを置いております。オブラート状のお口の清涼剤でございまして、ご自由に持っていってもらっております。このブレス・ストリップス、卸業者が扱いをやめておりまして、今後の注文が出来ない状態。つまり、現在、当店が持っている在庫分を配り終えましたら、フロントから姿を消す事になるのでございます。
それで、現在、フロントでお配りしているブレス・ストリップスの賞味期限が、2017年の7月。当店で抱えている在庫の量を考えると、多分、7月までに全部配り終えない。賞味期限を超えるとお渡し出来ないので、まぁ、廃棄処分でございます。
で、このブレス・ストリップス、次の入荷はございません。お店で抱えている分も、出来れば賞味期限内になくしたい。ですので、フロントでブレス・ストリップスを持ち帰られるお客さま、遠慮せずに、ガッツリ持って行かれても大丈夫ですよ。
今、このブレス・ストリップスに変わるものを探しているのですが、世の中はタブレット型の物ばかり。タブレット型のものは単価が高く、賞味期限もかなり短いので、お店で大量購入するのがチョイト難しい。ブレス・ストリップスに似たような物、どこかで作ってませんでしょうかねぇ。
木村拓哉のドラマ『A LIFE』が、どんどん面白くなっております。最初のギクシャクした感じがなくなったのでございます。松山ケンイチが、ノビノビと演技をしております。もともといいキャラクターと間の良さを持っておりますので、本領発揮というところでしょうか。木村文乃という女優さんも、魅力的な演技をしております。豪華で経験豊かなキャストがそろっておりますので、歯車さえ噛み合えば、いいものが出来てくるのは当然でしょう。
さて、また別のテレビ番組でのお話。厚切りジェイソンさんが「日本の四季」に関して言及しておりました。世界中に四季はあるのに、ことさら日本の四季に驚かなければならない番組が多いとのこと。まぁ、これは、日本のテレビ製作者の安易さが問題でしょう。無理に感動させる、これ、つまり、「やらせ」でございますからね。まぁ、「リアクション」とも呼びますが(笑)。
日本の季節感には、世界でも希な特徴がございますから、ジェイソンさんが理解しがたいのも分かる気がいたします。確かに、日本は春夏秋冬がかなりはっきりしております。でも、それだけなら、世界中に同じような場所は多くあるのでございます。
実はですね、日本の季節感には「時間軸」があるのでございます。これは、「ワビ」「サビ」といった感覚に通ずるもの。ワビ・サビというのは、「人が居なくて寂しい様子」「古びている様子」を表しております。しかし、このワビ・サビの感覚は、風景の一瞬を切り出しているのではございません。現在から過去の風景に思いを馳せ、その移り変わりに風情を感じる感覚なのでございます。
ここに、ワビ・サビには、「過去に思いを馳せる」という時間軸を伴った感覚である事が分かります。同様に、日本人の季節感にも、この「時間軸」が多く存在しております。たとえば、春に桜を愛でますよね。西洋人は、flowerとしての美しさを賞賛する。しかし、日本人は、桜を見ながら、その桜が散っていく「運命」に思いを馳せ、そこに「儚(はかな)さ」を感じ取る。
西洋人の感動のポイントは、ビジュアル。しかし、日本人の感動のポイントは「移り変わり」なのでございます。これは、食べ物の「旬」の感性にも表れております。食べ物をその「旬」に合わせて食べるのが、西洋人。ところが日本には、「はしり」「さかり」「なごり」という3種類の旬がございます。
「はしり」というのは、その年の最初に出たもの。「さかり」というのは一番美味しい時期。そして「なごり」というのは、その食材の最後の時期。「はしり」や「なごり」の時期は、必ずしもその食材が最高の状態ではございません。「はしり」「なごり」というものは、味メインではなく「季節感」を食べるのが目的だからでございます。
さて、ちょっとお話が飛びますよ。音楽で「シンコペーション」というものがございます。規則正しいリズムよりメロディーが先に飛び込んだり、あるいは次の拍まで粘ってくい込んだりするリズムでございます。ジャズなんかでは当たり前のリズム。シンコペーションのある音楽は、跳躍感が生まれ、軽い曲調を醸し出します。日本の「旬」の感覚は、まさに季節感におけるシンコペーションなのでございます。
日本の季節感は、「移り変わり」「移ろい」を主とし、過去を偲んだり、未来に思いを馳せたりという時間の概念が必ず付きまといます。瞬間、瞬間をビジュアル的に切り出すのが主の西洋の感覚とは、チョイト違う。でも、この感覚が分からないと、日本人の奇異な季節感は、理解しがたいでしょうねぇ。
本来の名称は「親不孝通り」。17年前にいろいろありまして、「親富孝通り」に名称変更。そして今回、「親不孝」「親富孝」「親ふこう」の3案で住民投票を取り、7割の住民の方が「親不孝通り」を選んだとのことでございます。昔ながらの名称に、思い入れが強かったのでございましょう。
さて、名古屋にも、昔ながらの住所の名前がございます。お店の近く、飯田街道の近くに白山神社がございます。そのあたり、昔、と言っても江戸時代のお話でございますけど、その昔、一里塚があったそうでございます。
名古屋城から長野県の飯田を結んだと言われているのが、飯田街道。その名古屋城から一里(約4km)ほど離れた地点が、ちょうどその白山神社のあたり。その一里塚より内側が昔は「城下町」として定められていたようで、ちょうど今の中央本線のガードのあたりに、関所の様なものがあったと伝えられております。
「塚越町(つかごしちょう)」というのが、そのあたりの古い表記。その一里塚を行き交う人に、様々な思い入れがあったのでございましょう。その由緒正しき地名でありますが、1977年の住所整理により、そのあたり一帯が「新栄○丁目」という住所に変更されてしまいました。
経済が急成長した時代は合理化優先で進められたのでしょうが、成長がひと段落した今、昔の表記を復活させるというのも一案ではないでしょうか? 中区のあたり、そして名駅のあたり、この地域は多くの昔ながらの住所が整理されたなくなっております。
外国人がよく、日本の住所は分かりにくいと言います。欧米の住所は「ストリート」がメイン。全ての道路に名前が有り、どの道路に面しているかで住所の区画を決めております。ですので、そのストリートを歩いていれば、確実に目的地を見つけられるのでございます。
日本の住所の区画は矩形というか、道路が境界線になっていてその両側が違う住所になっている場合がほとんど。名前の付いていない道路も多い。番地や地名も、やや不規則なことが多い。日本人でさえ、初めての土地では目的地を探すのが大変なことがございます。
西部劇なんかを見ておりますと、まず「メインストリート」が有り、その両側に建物が並ぶ形で街が出来上がっております。欧米の住所がストリートを基軸にするのは、何となく分かるのでございます。では、日本の区画の起源は何なんでしょうねぇ?
そこで、農耕民族ですから「田んぼの区画ごとに住所が決まった」と推測が出来るのでございます。根拠はございません。こう考えると、豊臣秀吉が怪しくなってくる。そう「太閤検地」でございますね。あの時期に、一気に田畑の測量が進んだのでございます。その影響で、道路が境界線になってしまったのかも知れませんねぇ(個人の推測です)。
韓国も日本式の住所区画でございました。これは、日韓併合の影響もあるのでしょうか? その韓国、なんと2014年に、日本式の区画から欧米式のストリート方式に移行しております。なんと、準備に17年もかかったとの事。住所表記がすべて変わるのですから、さぞかし混乱したことでございましょう。
「ごめんなさい」「すみません」という語がございます。もちろん、これらは「謝罪」の言葉でございます。しかし、日本語というのは不思議なもので、人混みの中をかき分けたり、ちょっと人を呼び止めたりする場合にも、これらの言葉が使われます。今日は、そんなお話。
本日放送されたEテレの『オイコノミア』という番組が「謝罪の経済学」をテーマにしておりました。その中で紹介されたのが「アイムソーリー法(Sorry Law)」というもの。事故などが起きたときに最初に発せられる謝罪の言葉は、その後の訴訟で証拠としては採用されないという趣旨の法律でございます。
このアイムソーリー法の発祥がアメリカだというから、驚き。しかも1980年代から提唱され、現在では36州ほどが制定しているというから、さらに驚き。「アメリカでは、交通事故を起こしても、絶対に自分から先に謝ってはいけない、自分の過失を認めてしまうから」とよく言われてきたものでございます。そんな”アメリカあるある”とは裏腹に、こんな法律がすでにアメリカでは進められていたのでございます。
冒頭でも述べましたように、日本語では謝罪の意味ではなく、ちょっとした儀礼的な言葉として「ごめんなさい」や「すみません」を使う場合も多いのでございます。この様な語が”口癖”になっている人もいらっしゃるはず。まずへりくだる事からコミュニケーションが始まるのが日本語の基本形なのですが、それが欧米などでは訴訟の証拠として扱われてしまうのでございます。
ただ、このアイムソーリー法が日本であまり知られていなかったのは、アメリカではこの法律、多くの州で「医療過誤に限る」という限定条件が付いているからではないでしょうか。番組「オイコノミア」によりますと、このアイムソーリー法の施行後は「医療過誤の訴訟件数は16%〜18%減少」、「和解までの時間は19%〜20%早くなった」とのこと。
逆に言いますと、ほとんどの州では、交通事故などの一般の訴訟では、最初の謝罪がその後に証拠として採用されてしまうということでございます。まぁ、欧米では、「ごめんなさ(I’m sorry)」が口癖になっている人は、要注意でございますね。
ここで、チョイト思い出したのが、お笑い芸人が車を運転中にタクシーと接触し、そのまま逃走してしまった事件。あれも、最初にまず謝罪があったならば、あれほどの大騒ぎにはならなかった気がいたします。企業のクレーム処理なども、まず最初に丁寧すぎるくらいに謝罪をいたします。
初期の謝罪の仕方で、その後の対応やコストが大きく変わってくるものでございます。訴訟大国のアメリカでは、このアイムソーリー法に関しては各州が細かく条件を設定しております。謝罪の言葉の中に”自分の非”を認める内容があったら、それは証拠として採用するという州もございます。初期の謝罪が、いかに微妙で重要な意味を持っているかということでございますね。
日本では、医療裁判により、多くの医師が疲弊しております。裁判を恐れて急患の受け入れを拒否したり、あるいは裁判になりやすい科の医師のなり手が少なかったりという問題がございます。最善を尽くしてもダメだったという手術もあるでしょう。日本も、医療過誤に限ってでもいいので、このアイムソーリー法を導入して頂きたいものでございます。実際に、アメリカでは効果が出ているのでございますから。
入ると非常に混んでいる。食券を買ってから気がつきましたけど、お客のほとんどが、料理待ちの人。まだ食べ始めてない。弁当を待っている人も2組くらいいる様子。急にバタバタと連続で来店してきたのでございましょう。
そのうち、厨房の中が何となく慌てている雰囲気に。男と女、2人の店員さんが、「○○が無くなった」とか言うような会話が、こぼれ聞こえてくる。ワタクシもずっと若い頃、お弁当屋さんで働いておりました。夜間、店番をしていて、よくやらかすミス、それは「炊飯器のスイッチを入れ忘れる事」でございます。多分、ご飯が無くなったのでございましょう。
お米は、まず洗米機で洗うという行程がございます。洗ったお米をネットに入れて、炊飯器に。水をきっちり計って入れる。ここで、30分ほど水に浸してから、スイッチオン! 炊きあがるとネットごと持ち上げて、保温ジャーへ移す。まぁ、最近の炊飯器ですと、いろいろ簡単になっているのかもしれませんけどね。
まぁ、とにかく、「ライス」ちゅうのは、仕込み始めてから出来上がるまでにそこそこの時間がかかる。ちょいと先読みしながら準備したりスイッチを入れたりしなければいけないのですが、急に立て込んだりしてそちらにかかりっきりになってたりすると、後の祭り状態になるのでございます。
さて、その後の松屋店内はどうなったか? 厨房で2人の店員さんが小声で相談している。そして、順番にお客さんに事情を話し、ライスが無くなった事、20分くらいかかる事を、告げて回っておりました。まぁ、ほとんどのお客が返金を希望して出て行きましたね。ごった返していた店内が、あっという間にワタクシ一人になったのでございます。
あれ? どうしてワタクシはまだ店内に? こういうときにワタクシのアマノジャクの精神が頭をもたげるのでございます。20分くらいかかると言われ、「待ちますよ」と笑顔で返事。ファーストフード店は、速さが命。そのお店が20分待てと言うなんて事態、そうそう体験出来るものではございません。これは、不運と考えずに幸運と考え、楽しむ事にしたのでございます。
また、今、ご飯を炊いているということは、ワタクシに出てくる弁当は、間違いなく炊きたてのご飯。これは、これで、ラッキー! もうね、待っている間、手持ち無沙汰でもありますので、お新香とか冷や奴とかの小物をバラバラと店内用に注文し、それをチビチビと摘まみながら待っておりました(笑)。
結局、お弁当を買いに行っただけの松屋で、50分滞在でございます。ちっとも「ファースト」ではございません。まぁ、炊飯器のスイッチの入れ忘れに気がついたときの店員の恐怖感(笑)、ワタクシも経験があり、よく分かりますからねぇ。ただ、その後の店員の対応は完璧でございました。こういう場合のマニュアルが有るのか、あるいはよくやらかすミスで店員が慣れちゃってるか(笑)。
ワタクシのお店でも、立て込むとパニクりますよ。お客さまにお待ちいただくスペースが限られておりますので。2人まではなんとか余裕。ほぼ同時に3人目のお客さまがいらっしゃると、内心、ちょいと困る。洗面室で待ってもらったり、最悪、「ごめんなさい、5分後にもう一回ドアホン押して」と言って、外で待たせてしまう場合もございます。
ここで、ワタクシがポリシーとして心掛けているのが、「待たせる勇気」。なんかドラマで「嫌われる勇気」とかありますが、あれとは関係ございません。もうね、立て込んでいるときは、こちらが腹を括るしかない。腹を括って、どうどうと、確実にゆっくりやる。この「ゆっくり」が重要。パニクって何かミスをやり、さらに待たせるという事態、この二重遭難状態だけは避けなければいけませんからね。
あと、よほど待たせた場合を除いて、「お待たせしました」は絶対に言わない。人間の心理というもの、「お待たせしました」と言われたら、待たされてなくても「待った」という気分になってしまう。だから、「すぐにご案内します」と言う。「すぐに」と言われていれば、多少待たされても「すぐに案内されたのだな」と思わせる事が出来る。
お店側が腹を据えてドッシリ応対すれば、多少お客さまを待たせる事になっても、「これがこの店の通常の流れなんだ」という印象を与える事が出来るのでございます。逆にお店がアタフタしてしまうと、急いで案内してもお客さまに結局不安感を与えてしまう事になる。
ここで、ポイントがはっきりしてまいりました。実際にどれだけ待たせたかという”物理的”な時間はあまり関係ございません。それは、心理的要素で長くも短くも感じられるからでございます。キモは、「安心感」。安心感を与える事で、「お客さまは待てるようになる」のでございます。
新人さんが入ると、まず店内で写真撮影。その写真は、ホームページのプロフィール欄やフロントの写真用に使われるのでございます。フロントの写真、「ポラロイド風」になっております。以前は本当に、ポラロイドカメラを使っておりました。ポラロイドって、いかにも風俗店っぽいでしょ。しかし、今はポラロイドのフィルムって既に生産を終えております。
そこで現在は、デジカメで撮影した写真を「ポラロイド風」にプリントして、フロントに並べております。ポラロイドのフィルムってのは、独特なアナログ感があって、良かったのですけどね。ちょいとフォーカスがゆるいので、自然にソフトフォーカスが掛かったような写真に仕上がります。
また、ちょっと赤っぽい黄色に色が転ぶ傾向がございまして、それも柔らかな健康的な写真になります。この色味がまたアナログっぽくて、その時の気温とかフィルムの新鮮度で、かなり変わってくる。よくポラロイドの現像中に「振る」という人が多かったものですが、一説にはあれはやらない方がいいとも言われておりました。
ワタクシが良くやったのは、現像中に手で暖める。あるいはライトに軽くかざして、ライトの熱で暖める。ただ、ライトの熱ってのはかなり強力でございますので、近づけすぎると簡単に色が変わりすぎてしまう。程よく暖めると、黄色みが増すのですよね。風俗で使う写真ってのは、青白い方へ転ぶよりは黄色や赤に転んでくれた方が健康的に見えるのでございます。
ポラロイドの話ばかりになっちゃいましたね。ポラロイドの頃はフィルム代がかかり大変でしたが、デジタルカメラに変わってからは、フィルム代も気にする事なく、何百枚と一度に撮る事も出来るのでございます。デジタルの良いところは、この気兼ねなくパシャパシャと枚数を重ねられることでございます。
アカデミー賞の会場が、大騒ぎ。受賞作を間違えて発表するなんてアクシデントもございましたが、授賞式で大統領と真っ向対決するってのも、なんともアメリカらしい。まぁ、一般的には「アカデミー賞は、言論の自由を守るんだ」なんて言っておりますが、なんかなぁ、ワタクシ的にはチャンチャラおかしく感じるのでございます。
2009年に『ザ・コーブ』というドキュメンタリー映画がございました。ご存じの通り、和歌山県のイルカ漁をドキュメントした映画でございます。これが、ドキュメントとは名ばかりの偏重映画。イルカ漁を批判するだけのプロパガンダ映画でございました。批判する部分は批判する。しかし、漁師にも言い分はある。その両者を取り上げてこそ、「ドキュメンタリー」なのでございます。
その『ザ・コーブ』が、なんとアカデミー賞の「長編ドキュメンタリー映画賞」を受賞してしまう。この時点で、「あ〜ぁ、やっぱりね」とワタクシは思ったのでございます。グリンピースの活動でも分かるように、動物愛護のような題材には多くのパトロンが付くのでございます。有名人や有力者がパトロンにつくと、何かしらのバイアスのようなものが掛かってしまう。『ザ・コーブ』の受賞もそんなバイアスありきの受賞であった様な気がいたします。
かつて、ネイティブインディアンは悪者。それを撃ち殺す白人は正義の味方。米国映画にこんな風潮しかなかった時代がございます。そんな風潮の転機となったのが、1972年のマーロン・ブランドのアカデミー主演男優賞。マーロン・ブランドは、その白人偏重思想を理由に、この賞を辞退いたします。この時から、ハリウッドはステレオタイプな西部劇にピリオドを打ったのでございます。
でもね、マーロン・ブランドが主張するまでは、誰もそれに気がつかなかった。気づいていても言えない空気が有ったのかもしれない。アメリカが独立してから何年経つんだ? 映画が発明されてから何年が経っていた? でも、ハリウッドはそのマーロンの指摘を受けるまで、延々と白人偏重西部劇を量産してきた。アカデミー賞は言論の自由の場とか言いますが、あ〜あ、チャンチャラおかしい。「嫌われる勇気」を持った1人の役者に指摘されるまで、何ら自浄能力が無かったではないですか。
お話を、今回のアカデミー授賞式に戻しましょう。授賞式が「反トランプ」一色に染まっておりますが、それもおかしな話。「言論の自由の場」で有るならば、両者がそろって好きな事を言えるのが理に適っているはず。反トランプで一色に染まるのも、反捕鯨で一色に染まるのも、ワタクシには同じに見えるのでございます。
白人偏重思想ってのは、まだまだアメリカには根強く残っておりますよ。たまたまトランプ氏が「嫌われる勇気」を持ってその思想を主張したのですが、アメリカ国民の約半数がそれに同調したことでもよく分かるのでございます。アメリカという国は「白人偏重」という本音を根底に持ちながらも、「人種差別反対」という建前で体裁を保っている国なのでございます。
ももクロとかシャネルズとかが顔を黒く塗ると、やたらそれに食いついて批判する人が出てまいります。特にアメリカ方面から。あるいは、白人女性が日本髪のカツラを付けて芸者を演じた「VOGUE」の広告が、これまたアメリカで問題に。日本では「何が問題なの?」って感じなのですけどね。
ここ数日、ウィンドウズのプロダクトキーがどうたらってメールが、ワンサカ届いております。迷惑メールのフォルダに十数通がまとめて届いてる(笑)。朝に削除しても、夕方にはまた十数通が届いてる。以前からある迷惑メールですが、ここのところ蔓延しているようでございます。
パソコンのメールだけかと思いきや、お店の携帯電話にも、何やら怪しげなメールが数通。こちらは有料動画を見たとかどうとか。動画なんか見られないオンボロのガラケーでございますし、そもそも、仕事用なんで iモードとか契約していない携帯電話でございます。この場合は一発で違法請求と分かりますが、一般の方はびっくりするでしょうね。
まぁ、パソコンの世界にもインフルエンザが有るのかと思うような蔓延の仕方。そんなことを思っておりましたら、ニュースで注意を喚起しておりました。ニュースで注意しなければならないほどに被害が出ているみたいでございます。心当たりが有ったりすると、騙されちゃうのでしょうねぇ。
オレオレ詐欺で使われた銀行の口座は、今はかなり早めに凍結されるようになりました。すると、今度は手渡しでお金をだまし取ろうとしたり、ユーパックで送らせようとしたり、この手の詐欺は、次から次へと新手が出てきまして、対応が後手後手に回っているように感じられます。
「詐欺で使われている」と分かったら、即座に「銀行口座」「電話番号」「メールアドレス」「URL」等々を凍結してやれば、こういった犯罪はかなり封じ込めるように感じられるのですけどねぇ。しかし、なかなかそうはいかない。どうしてもタイムラグが出る。その間に被害が大きくなってしまうのでございます。
極端な話、電話やネットでのやり取りは全部傍受して、コンピュータの自動解析で犯罪に関係するような物を即座に抽出し、実際に犯罪が行われているようであれば即座にその電話やアドレスなどを凍結する。これが出来ればいいのですけど、「傍受」ってのが大問題でうまく行かない。それで、元来性善説で成り立っているネットを利用した犯罪が、後を絶たないのでございます。
今のメールのシステム、ネットのシステムってのは、それが生まれた時点では完全な性善説で設計されております。成りすましとか偽装とか、そんなことを全く想定せず利便性だけを追及したシステムでございます。そして、今となっては、それが全く仇(あだ)となっている。
こういうものは、一度普及してしまうと、なかなかシステム全体を刷新するってのは難しいのでございますよね。何しろ、既に全世界に普及してしまっておりますから。そして、その偽装のやりやすさや匿名性から生まれる犯罪が増えてしまったのも、ここ最近の特徴でもございます。
ネットで知り合った赤の他人同士が、お互いに縁もゆかりもない場所で落ち合い、これまた只の通りすがりの人を相手に犯罪を仕掛ける。名古屋でも「闇サイト殺人事件」なんて悲しい事件もございました。点と点を線で繋ぐのが犯罪捜査なのですが、その線がネットによる偶然の産物だったりいたしますので、捜査も難しいでしょうね。松本清張もビックリなのでございます。
「共謀罪」をどうするかが話題になっております。闇サイト殺人事件なんて事件を思い返しますと、共謀した時点で何かしらの捜査を始められたら、あるいは罰則を与える事が出来たら、こういった犯罪の抑止力になるような気もいたします。今は、事件が実際に発生するまでは、何も出来ないですからね。