店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ほっんとうに、堪能いたしました。安藤美姫のスケーティング。優勝を決めた演技も良かったですが、さらに、エキシビションで演じた2曲が、これまた最高に良かった。安藤美姫さん、ありがとうございました。まさに、“表現者”としての息づかいを感じさせていただきました。
さらに驚いたのは、ロシアのペアチーム(A・スミルノフ、川口悠子)が、映画『千と千尋の神隠し』の中から『いつも何度でも』を使用していたこと。この時期にこの曲を使われますと、日本人としては目頭が熱くなりますねぇ。さらにゲームのマリオの曲を使ったチームがあったり、フィナーレでは日の丸をモチーフにした演出があったりと、実に日本に気を使ったエキシビジョン、そしてフィナーレでございました。
さて、浅田真央さん、調子が悪いのでしょうか、エキシビジョンにも残れないという低迷さ。苦しんでおりますねぇ。でも、安藤美姫さんもちょうど今の浅田真央さんぐらいの年齢では、大スランプだった気がいたします。このスランプを乗り越えたら、大きく変われるのではないでしょうか。ラサール石井さんが浅田真央さんに対して「もっとエッチをした方がいい」という発言をして、物議を醸し出しているようでございます。ワタクシもラサール石井さんに同感なのですが、ちょっと表現が露骨すぎたようでございますね。ただ、女性アスリートの中には、恋愛をすると急激に失速してそのまま引退してしまう人も少なくございません。恋愛によって分泌される大量の女性ホルモンが、アスリートにとってはマイナスに働くのでしょうか。難しいところでございますよね。
裁判にもかけずにいきなり殺害ですか。アメリカの「復讐」ですね。もっとも、東京裁判の例もあるように、裁判をやったところでまともな裁判が行われるとも思えませんけどね。大統領選挙を控えてのパフォーマンスなのでしょうか。あるいは、需要拡大のために戦争をやりたがっているのでしょうか。「あれ?」と思う部分もございますが、でも、アメリカのやることが「正義」であり、アメリカのやることが「ルール・ブック」。そう、アメリカは「ジャイアン」なのです。
原発問題でも、地震の直後にアメリカは冷却剤の提供を申し出てきております。福島第1原子力発電所で何が起きていて、これからどうなるか、それを震災直後にアメリカは読み透かしていたのでございます。ワタクシは心が斜めですから、これをナナメに見ちゃいますよ。ここでもし素直に日本政府が冷却剤を使ってくれれば、アメリカは日本に大きな恩を売ることが出来る。仮に、日本政府が自分で収束しようとしてグダグダになり日本独自の産業が停滞するようなことになっても(←いまココ)、アメリカは全然困りゃしない。むしろ日本の企業に食われている市場を取り戻すいいチャンスだと思うでしょう。どう転んでも、日本はアメリカの手のひらの上で転がされている。どうしてこうなるかというと、日本が純粋に国益を追求していないからでございます(誰が何を追及しているかは、また別のお話で)。逆に言うと、「どう行動すればアメリカの利益になるか?」といった国益主義と、根っからのヒーロー願望、そういったものがアメリカの行動原理の源なのでございます(アメリカの人が読んでたら、起こるかな)。
広島と長崎、どうしてふたつの原爆が落とされたか知ってますか? 威力を誇示するだけなら、一発で十分ではと思うでしょ。当時アメリカは、ウラン型原爆とプルトニウム型原爆の二つを開発したのでございます。両方を実験するためには二カ所に落とす必要があった、ということでございます。でも、それはアメリカの正義。日本は何十年も「どうして原爆を落とされたか」「どうして戦争に迷走していったか」を疑い続けてまいりましたが、アメリカにとっての原爆投下は疑う余地のない正義。この「疑わない正義」というのが、アメリカをジャイアンにしているのでございます。日本がアメリカとつきあう際には、「相手はジャイアン」と思っていなければ、対等のおつきあいなんて出来るわけないのでございます。
アハハ、いきなり浜岡原発を全面停止だって。まぁ、中部電力は原子力発電の依存度が低いので、関東のような停電にはならないと思いますし、こんな時期ですから、止めるのも仕方ないでしょうね。ただ、菅首相の発表が、あまりにも唐突すぎて(笑)。車の運転に例えると、ヒヤリとしたドライバーが慌てて反対側に急ハンドルを切ったら、こんどは別のものに当たりそうになったみたいな、そんな感じ。
ワタクシは原発に対しては、「上手におつき合いしていきましょうよ」という考え方。どんな科学技術も必ずその利便性と危険度が裏表になっております。その裏表をつないでいるのがコスト。安全にして利便性を高めようとすると、コストが膨大になり採算が合わなくなる。逆にコストを下げると、どこかで安全度を割り切らなくてはならない。この利便性・コスト・危険度の三者のトレードオフの落としどころを決めるのは「設計者」でございます。つまり、「原発が危険」なのではなく、「原発の設計思想が危険だった」ということなのですが、現状のこの雰囲気では、こんな区別した考え方は難しいですよね。さらに原発の場合は、この三者のトレードオフに加えて「利権」というものがくっついてきますしね。
「今、ユッケを提供している店は、絶対安全です」。なぜなら、こんな状況でユッケを出せるのは、十分な知識・経験を持っている自信のあるお店に限られるからでございます。同様に、「今後の原発は、かなり安全度が高くなるはず」とも言ってしまいましょう。まぁ、ユッケと原発を同様に語るワタクシも、暴論ではございますけどね。
科学技術にとっての「失敗」は、革新するための大きなヒントなのでございます。あのスペースシャトルでさえ二度も大きな事故を起こしておりますが、その度に時間をかけて安全性を高めてきております。技術が進歩するためには、失敗というのは不可欠なのでございます。福島第一原発は、原発の歴史から言うと第2世代の原子炉。最近の原子炉はすでに第3世代の原子炉になっておりましてちょっと安全度は高くなっているのですが、すでにミソもクソも一緒に語られております。福島第一原発が「もうすこし小さな失敗」で収まってくれていれば、今回の事例は原発の設計思想を大きく進歩させ、安全性を高めることに貢献したでしょう。初動の判断ミスが、本当に悔やまれるのでございます。
と書くと、何か原発推進派のように聞こえるかも知れませんが、ワタクシは原子力発電というのは「つなぎの技術」だと思っております。火力や水力が頭打ちの時代に、とりあえず次の発明が生まれるまでの「つなぎ」。原子力発電は低コストだと申しますが、運営によって発生する放射性廃棄物の問題は、あまりコストに入れられることがないのは、実に不思議でございます(だから、原発のコストに関しては、数字のマジックがあると思いますよ)。防護服やマスク、長靴、あるいは床を拭いた雑巾まで、さらに廃炉を行うと解体した膨大な瓦礫がすべて、これらを放射性廃棄物として(とりあえず)地中深くに埋めているのですが、出続ける放射性廃棄物の解決策は、世界中どこの国もまだ見い出してはおりません。
さて、これは特定の誰かのことを言っているのではなく一般論として読んで頂きたいのですが、最近の若い人はコミュニケーション能力に困っている人が多いですよね。世の中や大人に対して、どのようにコミュニケーションを取ればいいのかを学びそこなっている人が多いのでございます。学びそこなっているというか、自分の苦手な人とのコミュニケーションを、ひどく面倒くさがっている様でございます。その結果、「大人や世の中には、こんな顔をして、こんな言葉で答えれば納得してもらえる」という要領ばかりが身についてしまい、仮面を被るようになってしまっております。
一見はいい子に見えるのですが、実のところは「いい子の仮面」ですので、「真面目だな」と思って本人の良識に任せていると、簡単に迷走や暴走を始めてしまうのでございます。最近の真面目な子というのは、外見から感じるほどには、その内面は整合されていないのでございます。そして、仮面という防波堤を作っておりますので、心情に訴えるという話し方が難しい。それで、ついついルールを決めて守ってもらうという「契約」的な指導に走らざるを得なくなる。最初から(大人と)コミュニケーションを取ろうとする意思がないために、このような接し方になってしまうのでございます。
この若い人が大人とのコミュニケーションを面倒くさがるという傾向は、ネット時代の産物ではないでしょうか。ネットのコミュニケーションというのは、「都合のいい人だけを選ぶ」ことが出来るのでございます。また、不愉快なことがあれば放置したり回線を切ったりすることもできる。自分に対するストレスを未然に回避できるのですよね。ところが人とのコミュニケーションでは、自分と適合しない人とも何らかの接点を持たなければならない場合も多い。本当は、この小さなストレスの積み重ねがコミュニケーション能力を向上させていくはずなのですが、ネット上のコミュニケーションでストレスを回避していると、コミュニケーション能力を育てそこなったまま、年齢ばかりが大人の領域に入ってしまうということになるのでございます。
最近は「伊達マスク」というのが流行っております。あれも、顔を隠すことによって大人や社会とのコミュニケーションをしなくてすむようにしているのでございます。昔はそういったアイテムの代表は「サングラス」でございました。若い人が格好つけてサングラスをかけるのは、こういったコミュニケーションを面倒くさがる気持ちの表れでもあるのでございます。けれど、サングラスはかけられないシチュエーションも多い。だから、コミュニケーションの能力不足に落ち入る度合いも少なかった。ところが、マスクは授業中であろうが仕事中であろうが、一日中つけていられる。その結果、「マスク依存症」とも思える深いコミュニケーション能力不足に落ち入っている人も、ときどき見受けられます。ちょっと心配になったりいたします。
暑い、もう、夏みたいに暑い。この調子で本当の夏が来たら、夏場の電力は大丈夫か! 世の中、感情論で「原発止めろ」って言ってるけど、夏が来て大変なことになっても知らないよ。世の中ってのはそんなに急ハンドルは切れないんだからさ。なんで、5年とか10年といった展望で議論しないのだろう。
さて、ユッケがいろいろ議論されております。政府は規制を厳しくするとか言っておりますが、なんか大きな勘違いをしているような気がいたします。その勘違いを、ワタクシがチョットお話ししてみたいと思います。と、その前に、「生食」あるいは「規制」ということで思い出す食品を、ひとつひとつ上げていきましょうか。
まず、生食用と聞いて思い出すのが「牡蠣」。牡蠣の生食用というのは“鮮度”の問題ではございません。除菌処理を施しているものが生食用。施していないものは毒素を持っておりますので、当然、加熱用となるのでございます。この場合の規制は「生産者に対する規制」。牡蠣を出荷する前段階でかけられる規制でございます。牛肉に付けられる5段階の等級も、これと同様だと思います。
次に思い起こされるのが「河豚(ふぐ)」。河豚の場合は、「部位」が問題でございまして、この場合は河豚をさばく板前さんの技術や知識の問題。ですから、国家試験という形を取って、「現場の技術に対して規制」をかけているのでございます。牡蠣のような生産者側でかける規制が河豚には使えないというのは、よく分かりますよね。
他にあたりやすい食品と言えば「卵」。卵には生食用・加熱用なんて区別はありませんが、大きな問題が起こることは少ないですよね。それは、卵はその鮮度が重要だということが周知されているからでございます。ですから、規制というよりは「現場の良識に任されている」といったところでしょうか。実は、卵の殻の表面に付いているボツリヌス菌も要注意なのですが、これもきちんとした料理店(料理人)なら周知しているだろうというところで、現場の良識まかせなのでございましょう。
では「ユッケ」はどれに当てはまるのでしょうか? 今までは卵のように現場の良識に任されていたわけでございます。そして今回の事件を機に現場の知識やトリミングという処置を徹底させるのですから、河豚と同じ「現場の技術に対する規制」ということになるのではないでしょうか。ということは、もし規制をかけるとしたら、それは「流通」ではなく「現場」なのでございます。にもかかわらず、政府もマスコミも流通ばかりを問題にしている。大きな勘違いなのでございます。