店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
先日たまたま、リドリースコット監督の映画を立て続けに2本視聴したのでございます。『ブレードランナー』と『ブラックレイン』。ロサンゼルスの近未来と1989年の大坂の夜景が、ほぼほぼ同じ様なテイストで描かれておりました。どちらにも共通するのが、画面中に日本語(らしき文字)が散乱すること。アメリカにとって日本が「脅威」だった時代の映画たちでございます。
『ブレードランナー』には、「レプリカント」というアンドロイドが登場いたします。自分は人間だと思い込んでいたあるレプリカントが、自分の過去の記憶は「出荷時」に刷り込まれたものなのだと知ることから、この映画はスタートいたします。そして、ハリソンフォード演じる主人公は人間だったのか或いはレプリカントだったのかという謎は、制作後40年足らずが経過しておりますが、今なお語り継げられております。
さて、『ブレードランナー』を見てワタクシの中でリンクしちゃったのが、朝日新聞デジタルの以下の記事でございます。今は厚生労働省で働くある女性が、児童養護施設出身だということで修学や就職で苦労し、ずっと「小さなウソ」をつき続けて来たという記事でございます(有料記事なので参考までに)。
彼女と母親・妹・弟が父親から夜逃げしたのは、彼女が小学4年の時。父親の暴力が原因でございました。各地を転々とした後、都内の児童養護施設で生活するようになったそうでございます。バイトで自立資金を貯め、国立大学に入学。そして今は厚生労働省の職員をされているそうでございます。そんな彼女が一番苦労してきたこと、それは、「自分の過去」を語ったり書かなければならなかった時でございます。
友人同士の「どこ出身?」なんて気楽な会話でも、「施設」とは言えず小さなウソをつくことになる。ひとつウソをつくと、つじつま合わせでウソを重ねていくことになる。他人の信頼を裏切っているという背信感と、自分が何者か分からなくなるという孤独感にさいなまされることになる。施設を出た後は自立を強要されるので、仲の良かった施設の職員に気軽に相談するということも難しくなるそうでございます。
そして、就職活動の時に、「施設出身」というどうにも越えられない壁を彼女は実感することになるのでございますよね。生い立ちや緊急連絡先の「施設」という語に企業側は過剰に反応、怪訝(けげん)な顔をされる。面接で親の事を聞かれても即答が出来ず、面接官に叱責される。就活に行き詰まり、大学は休学、大学の寮を出てお部屋を借りようと思ったら、今度は、「親以外の保証人は認められない」と言われてしまう。
ただね、捨てる神あれば拾う神あり。「公務員になって、自身のその経験を活かしなさい」とアドバイスする人に巡り会うのでございます。彼女、公務員試験の勉強を始めます。「施設で育った人が不利益を受けないような制度を作りたい」というのが彼女の新しい目標になったのでございます。目標がこれですから、自分の生い立ちも思うままに話せる様になる。すると事態は180度好転。現在は厚生労働省に入って2年目になるそうでございます。
と、ここまでが新聞記事の概略。前置きが長くてゴメンチャイ。児童養護施設ってのは、別に悪いことをやって入れられた訳じゃなく、理由が有って親の庇護が受けられない子供たちが生活する施設ってだけの事。けれど、やはり世間の中には色眼鏡で見てしまう人たちも居るようでございます。世の中が理解を深めるというのが理想ではございますが、人の価値観を変えるというのはなかなかに時間がかかるものでございます。
そこでッ! ワタクシ、思考が『ブレードランナー』とリンクする訳でございます。レプリカントに虚像の記憶が刷り込まれたように、施設出身の彼女の様な人たちにも、「虚像の履歴」を作ってあげるのでございます。保険証や役所の書類なども作り込む。そしてこれを、法律的に整備してしまう。「そんな映画みたいな事が」と言われそうですが、これはアメリカの「証人保護プログラム」の様な物でございます。
アメリカでは、犯人からの報復を避けるため、裁判の「証人」となった人に全く別の名前・社会保障番号・パスポート・運転免許を与え、全く別の土地で生活をさせるという仕組みがございます。そこまで大がかりでなくてもいいので、せめて施設に居た間の「架空の履歴」を与えるということは出来ないでしょうかねぇ。履歴書に「ウソ」を書けば「偽造」になってしまう。しかし法律的な裏付けが有れば、それは「認められたウソ」ということになる。
実に「詭弁的」な処置となってしまいますが、「世の中の理解」が追いつかない今、その不理解に対する隙間を埋める「こじつけ」でもございます。まずは、不理解に苦しむ人たちの救済を最優先。その後、理解が追いついてくれればそんな制度は必要なくなる。こんな風に考える次第でございます。
またまた朝ドラの話題で恐縮でございます。非常に緻密な演出をされていて見応えのある現在放送中の『カムカムエヴリバディ』でございますが、先週の金曜日の放送に、ワタクシ、プリプリッ!でございました。まぁ、こっぴどく叩こうとも思ったのですが、このネタ、二日ほど寝かしまして、少し溜飲が下がった所で書き下ろしております。
ごくごく簡単に、金曜日放送分のあらましをご説明いたしましょう。舞台は進駐軍占領下の日本。ヒロインの日本人女性は、ラジオの英会話番組で英語を覚えただけ。もう一人の登場人物の米兵は、大学の日本語クラスで日本語を勉強。お互いに異国の言葉をおずおずと話しながら理解を深めていくという場面でございます。ワタクシがどうしてプリプリしたかと申しますと、両者のそれぞれ話す異国語が、あまりにも流ちょうで不自然だったからでございます。
さて、チョイト脱線いたしますが、「言葉」というものには、その「術(すべ、技術)」と「情(じょう、感情)」の二つの要素がございます。日常会話では、この両要素を巧みに織り交ぜながら表現をしております。例えば、アナウンサーの話し口なんてのは、「術」に振り切った表現でございますし、赤ちゃんがかろうじて話す言葉は、「情」のみの言葉だったりいたします。
余談の余談ですが、この二つの要素は言葉だけに留まらず、音楽や美術など、あらゆる「表現」と名が付くものには関わっている要素でございますが、まぁそれは置いといて。で、役者なども演技をする際、この二つの要素の配分比率を考えるわけでございます。どんなに激高していても、情に振り切ってしまうと演技が成立しなくなったりする。微妙に二つを織り交ぜているわけでございます。
では、お話を朝ドラに戻しましょう。異国語をおずおずと話すヒロインと米兵。この場合、台本上ではそれぞれ「異国語の“術”」が低いという設定でございます。術が低いと、人はどうやって相手に気持ちを伝えようとするか? そう、情なのでございます。しか~し、ここで新たな問題が! 人というもの、情が高じるとついつい母国語が出てしまうものでございます。と書きますと、これ、その展開が実に気になるワクワクする設定ではございませんか?
ところが、ところが、画面上の2人は、流ちょうに英語と日本語で会話を始めてしまう。ワタクシ、ワクワクした気持ちも醒め、(ドラマなのに)その決してドラマチックではない展開に、15分のドラマの中程で飽き始めてしまったのでございます。まぁそれが、冒頭で申し上げたワタクシのプリプリでございますね。怒っていてもしょうがない。ワタクシ、「どうしてこうなったか?」を推察してみたのでございます。
まず、大きな要因となったのは、米兵役の役者が本業ではないという事。NHKの体操番組に出演していた庭師さんでございます。その体操番組からはもう一人、体操のお兄さんだった人もサプライズ出演しておりますが、こちらは端役なので影響なし。けれど、けれど、この米兵役は重要な役どころ。NHKは「たどたどしい日本語だから、演技の技術はいらないだろう」と安易に起用したのでしょうね。先ほどの術と情の関係を考えれば、術が無ければなおさら情で演じられる役者が必要なのですけどねぇ。あ~あ、分かってないなぁ。
もうひとつの要因としては、このサプライズ出演の庭師さん、実はスウェーデン人なのでございます。日本語は流ちょうですが、逆に英語が訛(なま)っているはず(多分)。イギリス英語とアメリカ英語の違いでも取り沙汰される昨今のドラマ(『マッサン』とか)、この米兵にペラペラと英語を話させるよりは日本語で会話をさせた方が「安全」、とスタッフは考えたかもしれませんよね。
そのスタッフの中でも重要な要因となるのが「演出家」。朝ドラの演出は、何人かの演出家が週単位で回り持ちしております。で、ワタクシが想像するに、この週を担当した演出家とNHKとの力関係。あまり強いことが言えない立場の演出家だったのではないかなぁ? というのも、この週に登場した戦争孤児役の子役が、ほとんど汚されてなくて違和感アリアリ。別の週で登場した別の戦争孤児は綺麗に汚されていて(笑)、演出家の拘りに感服したのですけどねぇ。子役の事務所か親御さんからの、「汚しNG」に従ってしまったのかなぁ。
本来クリスマスは、「喜びを“共有”する日」なのですよね。人が他人に対して優しくなれる日。寂しい人がいたら、それを知った人達が全力で寄り添おうとする日。そう、慈愛、それがクリスマスの精神なのでしょう。
クリスマスにひとりぼっちでいることが、まるで悪いことをしているかのごとく言われた時代もございました。自分の中の慈愛に気がつき、その慈愛を他人に対して施そうとする日、それがクリスマスなのでございます。自分以外の誰かと一緒に居る必要がどこにございましょう? むしろ、自分と向き合うのには、ひとりの方が好都合ではございませんか?
クリスマスにひとりぼっちだという方、どうか引け目を感じなさるな! クリスマスは誰かから「楽しい」を貰う日ではないのでございます。「楽しい」を誰かに差し上げる日なのでございます。知っている誰かでもいい、見ず知らずの他人でもいい。