店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ところで、今年はちょっとおかしな現象が。元旦の日に郵便受けを見に行っても、年賀状がほとんど届いてない! 「あ〜、毎年ギリギリで出しているので、みんなワタクシに愛想を尽かしちゃったのか〜〜」と悲痛な思いになった正月三が日。でも、4日の月曜日、なんとドッサリ届いておりました。
ワタクシはうんと若い頃、そう、今から20数年前くらいの頃、芸能界をほんの少しかじっていた時期がございました。芸能人の卵でございますから、歌とか踊りのレッスンに通いながら、様々なオーディションに挑戦しまくるわけでございますね。まぁ、ニューハーフのワタクシがそう簡単に受かるオーディションなんてものはございません。なぜなら、「ニューハーフが出てくる脚本」なんてものが、非常に少ないからでございます。
ニューハーフなら女の役をもらえそうな感じがいたしますよね。でも、採用する側からすると、どんなに女っぽく見えても、普通の女性の役にニューハーフを使うなんて“ギャンブル"はしない。女性の役は女性が演じるのが、何よりも「安全」なのでございます。仮に「ニューハーフあるいはオカマさんが登場する脚本」があったとしても、普通の男性の役者さんに“ニューハーフっぽく演技してもらう”というのが、よくあること。それも、「安全」を担保するためでございます。
その様な理由もありまして、オーディションを落ちまくっていた頃のお話。ある舞台のオーディションには不合格だったのでございますが、別の舞台に出演したときに、その不合格だった舞台の関係者とお話しする機会があったのでございます。すると、その人の口から出た言葉が、
「あのオーディションは合格だったんだけど、トイレの問題があって、それで不合格になっちゃったんだよね」
とのこと。まぁ、当時のワタクシ、別に怒りませんでしたけどね。オーディションなんて落ちまくっていて、「落ち慣れ」してましたから(笑)。端役のオーディションというのは、技量の高さで選ばれるわけじゃない。脚本がワタクシのキャラクターを必要としているかどうか、ただそれだけのこと。自分の条件の悪さは十分に自覚しておりましたので、トイレが理由で落とされたと聞いても、不条理とか不平等とか、そんな感情は全くございませんでした。
ある人が「女性用のトイレを使わせろ」と言って経産省を訴える。またある人は「女性用の更衣室を使わせろ」と言ってスポーツクラブを訴える。そんなニュースがございました。今回は、この一連の裁判沙汰に関するワタクシの所感を、まったくもってワタクシの独断で述べさせていただくのでございます。
常識 = 多数派
非常識 = 少数派
ということでございます。ほんとに、これだけでございます。「え? 常識っていうくらいだから、何か根拠がなければいけないでしょ?」って考えていたとしたら、ブーーなのでございます。ガリレオガリレイの時代は、天動説が世の中の「常識」でございましたでしょ。そう、たとえ真理でなくても、それがその時の多数派であれば「常識」となっちゃうのでございます。ですので、「常識」なんてものは、時代や場所でコロコロ変わってしまうもの。極端な言い方をすれば、「人の数だけ、時代の数だけ常識がある」と言っても過言ではないのでございます。
字面は似ているけれど、常識・非常識とは“別次元”の言葉がございます。それは「良識」というヤツ。良識とは何ぞや? ワタクシ的には、良識とは「おもいやり」「気配り」「愛情」...といったもの。辞書によると「社会人としての健全な判断力」なんて書いてあります。何だか壮大な単語が並んじゃいましたが、要約いたしましょう。良識とは「客観視が出来、社会的に丸く収まるような方向に思考出来る能力」ということでございます。おぉ、なんとこれは、裁判所がやっている仕事ではございませんか。そう、(恐れ多いことに)「裁判所=良識」なんていう方程式が成り立ってしまうのでございます。
そこで、前述の裁判のお話になるのでございます。性同一性障害者というのは、明らかに「少数派」でございます。ですので、悲しいことですが、自動的に「非常識」に分類されるのでございます(コレ大事)。そして、非常識と常識の間を埋めるのが「裁判所」ということになります。ちょっとピンと来ないかもしれませんが、非常識・常識という語を使わずに、「少数派を救済する」という言葉に置き換えればしっくりするのではないでしょうか。じゃぁ、裁判所が間を埋めてくれて一件落着! となると思いきや、この問題には大きな落とし穴があるのでございます。
常識と非常識の間を埋めるのが裁判所ではございますが、裁判を起こした当の本人が、自分が「非常識」に属しているという認識が甘い。「常識と非常識の間を埋めよう」と考えているのではなく、「自分を常識(=多数派)の仲間入りをさせろ」と考えている節(ふし)がある。この原告本人の勘違いがあるために、なかなか不毛な裁判になるような気がいたします。そもそも、正当な良識を持ち合わせていれば、裁判沙汰にまでならなかったはずでございます。
具体的にはっきり申しましょう。経産省やスポーツクラブといった組織は非常識な人に対してそれなりの譲歩をしているのですから、非常識な側もそれなりに歩み寄って、適度な落としどころで納得すべきでございます。ひと昔前なら解雇されたり出入禁止になったりするような事例でございます。それを考えたら、世の中は非常識(=少数派)に対してかなり間口を広げてきているのでございます。その間口の広さに感謝する気持ちをもう少し持ち合わせていたら、裁判沙汰にまで発展しなかったはずでございます。
同じようにトイレや更衣室の問題を抱えている性同一性障害者の人がもしいたら、ワタクシからのアドバイスを差し上げましょう。性転換もした、性別も変えた、女にしか見えないというレベルの人でも、それでも「元男性と一緒のトイレ(更衣室)はイヤ!」って言う女性は、必ず存在します。この“現実”を十分肝に銘じるべきでございます。そういった価値観の人の心を開くのは、あなたの「人柄」です。迷惑をかけないように、不快感を与えないようにと気配りする心、つまりあなたの良識でございます。「あんなにいい人なんだから、私たちもちょっと折り合ってあげよう」と回りの人に思わせたら、そこが“スタート”なのでございます。
さらに、そんな「折り合い」のかけらもない環境もございます。そういった逆風強い場所では、「完全に騙しきる」ことが必須でございましょう。というか、今現在、社会に溶け込んでいる性同一性障害者のほとんどは、このパターンではないでしょうか。これは、かなり理想的な容姿を持ち合わせていなければ難しいです。ゲイ・レズビアン・性同一性障害に理解がある世の中になってきたとは言いますが、そういう人達に対する世の中の間口なんて、まだまだ、こんなもんです。
では最後に、ワタクシの若い頃のあるエピソードを紹介いたしましょう。数多くのレッスンをこなしながらオーディションを受けまくっていた頃の、お話でございます。その当時のワタクシに、ワタクシが所属する事務所の社長さんは、こんな言葉を投げかけるのでございます。
「ニューハーフの役なんて来るわけないだろ。まず「男役」をきっちり出来るようになれ。それでおまえが“有名”になったら、女役だろうがニューハーフの役だろうが、向こうから頭を下げてお願いに来る」
実はですねぇ、昨日、左上の奥歯がひとつ、パッカ〜ンと割れまして、困っておりました。どん兵衛の鬼かき揚げ、あいつにやられました。かけつゆが染みこむ前のサクサクっとしたのをかじりつくのがたまらなく美味しいのでございますが、まさかあんなものにやられるとは。まぁ、以前から弱っていたのでしょうが、不覚でございました。
とりあえず、こういうときはどうするか、ネットで検索でございます。ホント、便利な世の中になったものでございます。すると、なんと!「欠けた歯を牛乳につけろ」との重要情報。「牛乳がなければ口の中に入れ続けろ」とも書いてありましたが、ワタクシの場合そんなことをしたら、絶対に飲み込んじゃう(笑)。小袋に牛乳を入れて、半欠けの歯を入れたのでございます。どうやら、乾燥させないことが重要らしい。歯はカルシウムで出来ていて、酸に弱い。カルシウム豊富でアルカリ性飲料の牛乳に入れるとは、納得至極なのでございます。
ただ今、お店の給湯器の大刷新計画実行中でございます。当店にご来店のお客様の中には、巨大な給湯器が室内にあるのを驚かれた方もいらっしゃることでしょう。あの過去の遺物はすでにメーカーからの部品供給も終わっておりまして、「もし故障したら修理不可能」というしろものでございました。
そこで、壊れる前に最新式の給湯器へ交換してしまおうということで、二日ほどかけて交換しております。三台の給湯器の内、二台は今回交換してしまうのですが、工事の一番面倒くさいのがひとつ残っておりまして、それは来月の工事になりそうでございます。
さて今日は、実は給湯器のお話がメインではなく、その工事にさしあたって出てきた、ある小さな伝票のお話。壁際に配管を這わすとかいうことになり、備品を入れてある大きな棚を動かすことになったのでございます。すると、その棚の奥からヒラヒラ〜と出てきたのは、小さな小さな伝票。缶ビールを宅配便で注文したときの納品書のようでございます。
他のゴミと一緒に捨ててしまえばいいのですが、つい、「何を買ったんだろう?」なんて興味を持って伝票を見ますと、驚いたのはその日付。5年前の「あの日」でございます。前日に発注したようで、「あの日」のまさに「あの時間」にお届け指定されております。そんな伝票を見ながら、「あの特別な瞬間に、黙々と宅配の仕事に従事する人がいて、それをいつものように受け取るワタクシがいて、ニュースを見ながら『これからどうなるんだろう』と少し不安になり、でも遠く離れた災害なのでどこか他人事な自分がいて...」なんていう、あの「忘れ得ぬ日」を思い出しておりました。
大相撲初場所の真っ最中でございます。ここのところ、「隠岐の海」関に興味津々なのでございます。前場所の九州では、初日からいきなり八連敗。実にやるせない顔つきで臨んだ九日目に、やっと一勝目。涙目でインタビューに答えていたのが印象的でございました。しかし九日目から打って変わっての五連勝で、終わってみれば、五勝十敗の成績でございました。ちょっとやさぐれ感のあるあの顔立ちが、な〜んか気になるのですよね(失礼)。
さてお話は開催中の春場所の話。昨日(1/14)の隠岐の海・豊ノ島戦でのこと。隠岐の海が逆転して勝ったように見えましたが、なぜか軍配は豊ノ島に。物言いも付かないまま、そのまま勝敗が決まってしまいました。前日まで四連勝中でしたから、隠岐の海関、悔しかったでしょうねぇ。で、本日(1/15)のNHKの大相撲中継では、アナウンサーが昨日のその一戦に言及しておりました。
アナウンサー「隠岐の海、昨日は逆転の末に豊ノ島を下したのですが、なぜか軍配は豊ノ島に上がり、そのまま物言いも付かないということがありました。惜しい星を落としました」
とさ。アナウンサーも、あれを「誤審」だと思っているようでございます。というか、テレビの精細なスローモーションではっきりと見えておりますから、テレビ中継を見ていた人は、ほぼみんな、「誤審」だと思ったでしょうねぇ。ところが、相撲の世界には誤審という概念はない。真実や過程がどうであろうと、最終的な判断は、審判団の「胸先三寸」。なぜならば、「死に体」「かばい手」「送り足」といったグレーゾーンなルールを残しているからでございます。
さらに、「同体にしてもう一番取らせた方が盛り上がる」とか「この関取には横綱になってもらいたいから...」といった「興行的」な理由では?と、いぶかしく思われる場合もあったりして。ただ、そもそも大相撲はその発祥が「興行」であって、近代になってスポーツ的要素が入ってきたのでございますが、どうも、その興行とスポーツとの兼ね合いの歪みに、先ほどのクレーゾーン的なルールが残ってしまっているのでございましょう。
日本人は、大相撲のそういうグレーなところも含めて楽しんでいるわけでございますが、近年になって増えてきた外国人力士には、どこまで理解できるでしょうかねぇ。ヘタすると、「外国人差別」と受け取られるのでは、と心配になったりするのでございます。勝敗にお金が絡んでいるのでございますから、もうそろそろ「グレーなルールの見直し」をしてもよろしいのではないでしょうか? 現状でもビデオ判定は行っておりますが、どうも、ビデオ室の意見よりも土俵上の審判団の思惑の方が勝ってしまっているようで、ビデオ判定の意味があまりないのでございます。
せっかく、世界のNHKが放送しているのでございますから、今、はやりの4Kカメラを駆使してはどうでしょうかねぇ。土俵を四方向から囲むようにカメラを向けておけば完璧でございましょう。八台くらいのカメラでグルッと囲んでしまえば、マトリックスよろしくストップモーションのままグルグル回すことだって出来ちゃうのでございます。4K画像なら、相当な画像拡大にも耐えられる。大きく拡大しても画像が荒れないことを見せつければ、4Kのいい宣伝にもなるのでございます。
スポーツの世界では、ビデオ判定ってのは急激に進んでおります。土俵の面積を考えると、サッカーやテニスなどよりはるかに簡略なシステムで行えるはずでございます。あとは、審判団の「プライド」でしょうかねぇ。ビデオ判定優先で勝敗が決まるのなら、審判団はいらないだろうって話になっちゃいますからね。でも、これはビデオ判定の導入を進めているスポーツ全てに共通する問題ですから、克服の糸口は見えている。むしろ、本当の「壁」は審判団のプライドではなく、「大相撲のスポーツ化」ではないでしょうか? スポーツと化することで、何か大きな伝統を失う、そんな恐れを多くの人が持っているのではないでしょうかねぇ。
という歌い出しの曲がございます。さだまさしの『追伸』という曲でございます。さだまさしと言うよりは、「グレープ」と言った方が正確かも知れません。少女の失恋の歌なのですが、歌詞の中に「わたし、髪を切りました〜」という部分がございます。失恋と髪を切る行為が相互リンクされたのは、いつからなのでございましょうねぇ? 特にワタクシは失恋をしたわけではございませんが、髪を切りました。う〜んといっぱい切りました。その姿がこれ。
昨日、お部屋の移動をお願いしたお客様、大変不自由をおかけしました。お湯が出なくなった給湯器は、ちょうど1週間前に取り換えたばかりなのですが、取り換え直後から不調でして、昨日、とうとう安全装置が作動してロックがかかってしまったようです。
本日はワタクシの母親の命日でございます。以前書きましたように、毎年の恒例、うなぎ弁当をお供えしたのでございます。母親が亡くなってから11年も経つのですが、未だに、押し入れの奥とかから、母親の持ち物がポロッと出てきたりいたします。昨年末も引き出しの中から母親の名刺ケースが出てきまして、その中から、非常に若い頃の写真が出てまいりました。若い頃の写真はほとんど持っていなかった母親でございますが、この写真は何か思い入れがあったのでございましょう。3cm×4cmといった小さな写真ですが、大事に、名刺ケースの中に収められておりました。
松竹の子役だった母親、戦後は女優業から女剣劇に移り、その後、京都で小料理屋を経営し、何が有ったかは分かりませんが、ワタクシを生む直前に名古屋へ移り、今に至るという感じでございます。ワタクシが芸能に関して憧憬が強いのも、母親ゆずりでございましょうかねぇ。ただ、この母親の経歴のおかげもありまして、ワタクシがニューハーフ・カミングアウトする際には、非常にスムーズでございました。なんつっても、子役の頃から女形の俳優さんを見ていたでしょうし、女優業・女将業のころは、さぞかしゲイバー遊びをしたらしゅうございますから。
当店で使っている足ふきマット、銭湯を知っていらっしゃる世代ならば懐かしいですよね。あるいは、飲食店の厨房などで使っているところが有るかもしれません。毎日、何十回も足を拭くことになりますので、あれくらいの物でないとすぐにビショビショになってしまいます。
甘利大臣、なんかかわいそうでございましたね。あの方は、ある意味、政治家としては「シロウト」でございますからね。むしろ、回りの取り巻き連中が「たかりのクロウト」なんだと思いますよ。そういえば、猪瀬さんの時も、同じような感じでございました。あの場合も、どうもお金を送った方がクロウト。対応に四苦八苦して訳の分からない領収書まで出してしまった猪瀬さんは、どう見てもシロウト。一目瞭然でございます。
政治家のクロウトだったら、秘書のせいにして終わり。そして、その秘書は責任を感じて自殺するか、訳の分からない事故で死んじゃうのですよね。あるいは、政治家本人が「記憶にありません」を言い続けて煙(けむ)に巻いてしまったり。古くはロッキード事件、最近では耳に手を当てる政治家とかいらっしゃいましたよね。ああいう人達は、「政治家のクロウト」なんですよ。クロウトの政治家、クロウトの取り巻きが百鬼夜行する中にシロウトが飛び込んでいったら、そりゃ怪我をしますよ。
以前、「良識」に関して言及したことがございます。「善」は良識なのでしょうか? 答えはYes。では、「悪」は? 悪も良識なのでございます。不思議に思われるかもしれませんが、良識というものは善も悪も包み込んでしまうような懐の大きなものでございます。そもそも、善も悪も、人間が作った概念。そして、「常識」「非常識」の例えのように「その時その時の多数派が“善”」ということも多いものでございます。今まで善だったものが、ある日から悪になってしまうということもあります。色即是空、空即是色。善も悪も同じもの。同じものを表と裏から見ているだけなのでございます。
ベッキーさん、略奪愛発覚後も笑顔で番組に出演しておりましたが、ここに来て急展開。全てのレギュラー番組から降板して、休業状態になってしまっております。番組やスポンサー宛に、相当数のクレームが入ったとのこと。男と女の艶事(つやごと)ですからねぇ。面白おかしく巷のうわさ話にこそなっても、それで「追放」されるほどの事かなぁ、と思うのでございます。
こういうことに執拗にクレームを入れる方というのは、心の中の“善悪メーター”が「悪」の方へ振り切っているのでございましょう。ベッキーが究極の悪人に見えるからこそ、「テレビから抹殺するまでクレーム」という極論に走ってしまうのでございましょう。彼女が非常識だからですか? でも、一般大衆は、非常識なものを求めてテレビを見ているのではないのですか? 子供の教育に悪いとは言いますが、子供に略奪愛なんて理解できるのですか? クレームを入れている人は、ただの一度も浮気をしたことがないのですか?
でもまぁ、いろいろ報道されている2人のやり取りが本当なら、2人とも善と悪の区別もさじ加減も出来ない「恋は盲目」状態(笑)。けっして良識のある状態では無くなっているようでございます。人の心から良識さえも奪ってしまう恋心といふもの、あな怖ろしや、なのでございます。ベッキーさん、あの年齢まで恋愛といえるような経験が浅かったのでございましょうか。中年になってからの初恋は暴走してしまうので、危険なのでございます。
さて、ここからが本題。先ほど「善悪メーター」なる言葉を発しましたが、最近の日本人、特に大震災以降、この善悪メーターがどちらかに振り切ってしまう方が多いのでございます。そういう方は、メーターの針が中間値を指すことがない。というか、中間値を認めない。それはどういうことかというと、妥協は一切認めない、自分の主張が100%通るまで、絶対に納得しないという頑固な世論を形成しちゃっているのでございます。
例えば、原発再稼働の問題。原発というものは、利と害を両方とも含み持っているもの。それを包括的に評価した上で、再稼働を論じ、妥協点を見つける。つまり、まさに「良識」が必要なのでございます。ところが、「原発=悪」と振り切っちゃっている人は、何ひとつ妥協を受け入れられないから、論争がどんどん不毛になっていく。震災以降、こういった不毛な議論が延々と続いている気がいたします。
善と悪を使い分けるさじ加減、妥協点を見つけること、これを「トレードオフ」という言葉で表現することも出来ます。日本人は、このトレードオフがすごく苦手。古来より農耕民族の日本人は極端な全体主義で、全員で意見を一致させるということにこだわり過ぎるところがございます。本来は、学校教育の初期段階から「ディベート」と呼ばれる反論をぶつけ合う授業や訓練を、もっと取り入れるべきなのですけどね。反論をするためには、相手の主張をよく聞く必要があります。これはディベートの基本中の基本。でも、ディベートに不慣れな人は、相手の話を聞くことよりも、自分の主張をアピールすることばかりに執着してしまう。そういう人の中には、「勝ち」と「負け」しかない。これでは、議論はどこまで行っても不毛になってしまうのでございます。