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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2017-02-13 【芸能人は、非常識で無法者であるほうが絶対面白い】

若い頃から音楽や舞台に携わってきたワタクシは、「人を感動させるツボ」というのを考え続けておりました。幼少期の頃は、自分で考えた踊りを音楽に合わせて踊ると、大人が大喜びすることに気がつきました。子供の考える踊りですから、稚拙でございます。それでも、大人の喜ぶ顔が、快感でございました。

青春期、ワタクシが楽器を演奏すると、聞いていた人が「固まる」というのをよく経験いたしました。とりわけ賞賛を望んでいたわけでもなかったので、その時は気にも留めておりませんでした。あるいは、明からさまに嫉妬の表情をする人もおりました。でも、「ワタクシの演奏なんか誰も気にしてない」と思い込んでおりましたので、やはり、意味が分かりませんでした。

ショーパブで働き始めた頃、ダンスのレッスンに通うようになりました。レッスンを初めて数年後のある時期から、ダンスの先生が急に厳しくなりました。後から思えば、「生徒」から「弟子」に昇格したのだと気がつきましたが、その時、ワタクシの中では、その先生を見下す心が芽生えておりました。

先生を見下す心、これは、自分の中で表現したいものと先生のそれとのギャップから生じるものでございます。「自分がやりたいのはコレじゃない」という気持ちが沸き上がりますと、「この人の下にいちゃいけない」という考えに至るのでございます。それが、「見下す」という傲慢にまで増長していくのでございます。

この傲慢は、音楽のレッスンでも起こりました。音楽の先生、ダンス教室をいろいろ変えてみるものの、「生徒」としか扱われないうちは、冒頭で申し上げた「固まる」という現象が起きました。この時点になって、その固まるという現象は「感動」なんだと気づくようになりました。「私は人を感動させている」という実感が湧くとともに、ワタクシに感動して固まっているその先生方には、やはりワタクシの中に見下すという感情が湧いてまいりました。

本気で人を感動させると、その人は固まります。そして、何か美味しいスイーツでも食べたような微笑みを呈しております。「私は人を感動させられる人間なんだ」という自覚を持ちますと、今度は、その自覚との戦いが始まったのでございます。なぜなら、そう自覚した瞬間に、人を感動させられなくなるからでございます。

スポーツ選手に「ゾーン」という体験があるそうでございます。そのゾーン中は、精神が集中し、プレッシャーもなく、非常に高い能力が出せるそうでございます。しかし、ほんのちょっとした雑念が、そのゾーン領域から逸脱させてしまうそうでございます。ワタクシの中にも、そのゾーン体験と同じような感覚がございました。意識すると、感動させる能力が逃げていくのでございます。

その後、ミュージカルの勉強をしている頃、ワタクシは、歌や、演技や、ダンスのレッスンするさいには、いつもその「自覚」との戦いをしておりました。優越感と劣等感、雑念と無心、そういったものがパイ生地のように何層も積み重なった感情が、心の中にうずめいておりました。そして、「天狗」と「卑屈」の両者を行ったり来たりする事になるのでございます。

その後、ワタクシの人生の大きな岐路がやってまいります。東京の事務所のオーデションに受かり、そこの研究生になれたのでございます。そして、幸運にも時はバブルの終焉ちょっと前の時期。お金が有り余っている時期でございましたので、研究生と言えども相対する先生方は日本のトップクラスの人達ばかり。実際に日本の芸能界の現場で活躍されている方々ばかりでございました。

研究生という立場ですので、教える方も完全に「師匠と弟子」モードでございます。その先生方、さすがプロでございます。ワタクシの中の「葛藤」を完璧に見抜いておりました。徹底的に、ワタクシの鼻っ柱を折るという指導に徹しておりました。動物の調教と同じでございますね。まず上位のものが下位の首に噛みつく。上下関係がはっきりして初めて、「調教」が始まるのでございます。

その後、実際の舞台に立つようになっても、「プロの洗礼」を受ける事になるのでございます。出演者すべてが、「自分はこう表現したい」というものを持っている。もちろん、脚本や演出による「縛り」は当然ございます。その縛りの中で、各自が自分の主張を前面に出そうという「戦い」が舞台の上で行われるのでございます。

舞台に立ち続けるというのは、それなりのプレッシャーでございます。「自分の居場所がなくなるのではないか」という不安は、いつも付きまといます。そして「自分は人を感動させられているのか」という疑心も、常に沸き上がります。逆に、そのような不安や疑心から翻(ひるがえ)って増長側に至ったとき、感動の「ゾーン」が消えていくというジレンマもございます。

さらに、ドラマでも映画でも舞台でも、大勢のキャストやスタッフが携わっております。その大勢の中のほんのひとつの「駒」として動いていくうちに、なにか巨大な綿の中で手足を動かしているような、そんな手応えの無さも感じてくるものでございます。それは、本来、自分がやりたかった事とはかけ離れている事が多いというのも、要因のひとつでございましょう。自分の中で完結している芸術でない限り、この「個」と「全体」との葛藤はなくならないのでございます。

そんな不安や虚無感の中でも、なんとか芸能界に残りたいと思う人は大勢いらっしゃいます。それは、大きな「全体」の中の「個」でしかないにも関わらず、その「個」が「世界の中で自分にしか表現できないもの」を訴える事が出来るからではないでしょうか。その「自分にしか出来ないもの」を守り通すため、日々、不安や疑心や葛藤を持ちながらも、芸能界に憧れ、自分の場所を確保し続けようとする芸能人の方々が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

最近、あっさりと「引退」してしまう芸能人の方が増えております。確かに、週刊誌などでプライベートを晒されてしまうようなことがあると、「そこまで犠牲にして残りたい居場所でもない」と思うのかもしれません。あるいは、「犠牲を払ってでも守りたい『個』がない」ということなのかもしれません。

成宮寛貴さんや清水富美加さんの唐突な「引退」の陰には、本人でしか分からない事情が有ったのかもしれません。あるいは、守り通す「個」を見いだす前に、プレッシャーばかりが襲いかかったのかもしれません。残念ですけど、本人の強い意志があるようですので、仕方がないですよね。

芸能界ってのは、不道徳で、無法地帯で、快楽主義で、かつストイックで、そんなハチャメチャな場所でいいと思いますよ。基本的に、芸術的意欲の下に「楽して儲けたい」というモチベーションを持った人達の集まりでございますから。

視聴者や聴衆は、画面や舞台に「非常識」を求めるくせに、それを演じている芸能人には「常識」を強く要求する。そんな非常識と常識の間の歪みを埋められないと、「引退」ということになってしまうのかな、そんな風にも思いました。

長くなっちゃいましたね。最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。では、では。


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