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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2017-02-14 【おぼろ昆布も、モヤモヤで美味しい】

朝の情報番組で、ファックスを使っているのは世界中で日本くらいだって言ってました。いやぁ、ワタクシのお店にも、いまだにファックスはございますしねぇ。ただ、4年ほど前にお店の電話をNTTのビジネスホンに入れ替えましたが、その際、ファックスの接続はチョイト面倒くさかった覚えがございます。”業界的”には、ファックスは無くしていきたい方向なのかもですよね。

うちのお店でファックスを使っていたのは、広告原稿のやり取りがメインでございましたね。それも、メールで確認するようになってからは、ほとんど使わなくなっております。でも、家電量販店では、まだまだファックスがたくさん陳列されている様子。一般家庭では、需要があるのですよね。

30年前、卸売市場で働いていたとき、注文のほぼ全てがファックスでございました。紙に太字のマジックで走り書きしたものが、深夜に大量に送られてきておりました。今はどうなのでしょうねぇ? でも、昔ながらの八百屋や魚屋さんなどは、今だにマジックの殴り書きファックスで注文しているような気がいたします。なんか、その方がイメージが有っている感じがいたしますから。いえ、根拠はございません。

世界的にレガシー(遺産)となりつつあるファックスが日本で生きながらえている理由は、なんとなくですが、2つほど有るように思えます。ひとつに、パソコンやスマホの日本語変換がネックになっているのではないでしょうか? 特に高齢者。この事情は、変換の必要が無いアルファベット圏の人達には、理解が難しいでしょうねぇ。

もうひとつの理由が、「手書き」を重要視する文化。これは「書道」と「レタリング」の似て非なるものを比較する事で、分かるのではないでしょうか。欧米での「レタリング」というのは、”手書きで清書する”という技法のこと。つまり、あくまでも目標は活字の美しさを追求しており、文字の持つ「記号」としての機能を捨てておりません。

逆に、「書道」は、明らかに「絵画」の世界。記号としての機能よりも、「形としての芸術性」が優先されております。そして日本人は、その手書きの向こう側に「書いた人の“心”」を読み取る習慣が付いております。文字を記号としてしか使わない欧米人からすると、文字を絵画として鑑賞し、その作者の心を読み取ろうとする日本人の感覚、理解しがいでしょうねぇ。

欧米人が日本に来てファックス以外に驚くのが、この「手書き文化」だそうでございます。履歴書とか手書きにこだわる企業は多い。領収書も手書きのものをわざわざ別に用意している店舗が多い。それでなくても、漢字・ひらがな・カタカナ・英数字と混沌としている日本語の文字環境。さらに手書きを要求されるというのは、ハードルが高いでしょう。

この手書き文化を受けて、やはり日本では「手帳」を使う割合が高いそうでございます。文房具店へ行くと、様々な様式の手帳が溢れかえっております。さらに気になるのが、その手帳に貼る小さなシールが、これまた棚に溢れかえるように用意されている事。日本の手帳は、その使い方において独自の進化を遂げているようでございます。

このコラムは、パソコンのキーボードから直接入力しております。しかし、ネタを繰る段階、つまりアイデアを絞っている段階では、必ず紙に手書きでございます。一時期、それもパソコンでやろうと思いましたが、効率が悪すぎる。それで、アイデアを練っている段階では、手書きの走り書きでやっております。

パソコンの何が効率が悪いかと言いますと、「余白」が使えないという問題。紙ですと、大事な項目はまん中に大きく書き、それに関連する小さな項目を、余白に小さく書いていくということができる。もちろん、パソコンでこれを実現するソフトはございますが、手書きの自由度に比べたら雲泥の差なのでございます。

また、ワタクシ、手書きで走り書きをしているとき、自分では無意識のうちに、その走り書きしている文字を口ずさんでおります。この「口ずさむ」という行動が、結構重要。これをやると、アイデアが出やすくなる。次の文章が出やすくなる。文章がリズムに乗りやすい。いい事づくめなのでございます。

アイデアが出ないときは、考えながら歩き回ります。これも効果的。以前は、スポーツジムでウォーキングをしているときに、よくいろいろなアイデアが浮かんで来たものでございます。「考える」という作業は、体を軽く動かしている時の方が、出やすいようでございます。何かしら脳みそに血液がたくさん行くとか、そんな理由があるのでしょうか、ちょいと不思議なのでございます。

話がそれましたね。日本人の手書き文化、これは残したいですよね。風鈴の音を聞いて「夏」を連想したり、苔を見て「時間の経過」に思いを馳せたり、文字を見てその人の「心」をうかがい知る。こういった「おぼろげな連想」は日本人が得意とする分野。

日本の文化として、「朧月(おぼろづき)」を愛でるという世界でも変わった感覚がございます。ぼんやりしたものを「美しい」と感じるわけでございます。欧米がこれを認めたのは「印象派」以降ですから、まだまだ日が浅い。日本では、清少納言や紫式部の時代から、この感覚を持っておりました。

こんなこともありまして、手書きの向こう側にあるおぼろげなその人の「心」を感じ取る文化が、根強く残っているのではないでしょうか。最近では外資系の企業も増え、手書き履歴書不要論なんてのも有るようですが、その不要論は、それはそれで認めつつ、手書きのおぼろげな表現も、残したいですよね。では、では。


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