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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2016-10-27 【生徒の命をないがしろにした教員は、1人もいなかったはず】

今日のテーマは「法益」。法律は誰のためにあるのか、何のためにあるのかというのがテーマでございます。

「大川小に過失がある」という判決が下りました。新聞は「『想定外』は免罪符にはならない」と書き立てております。ワタクシは、この学校側に過失があるという判決を、ひどく残念に思っております。教員側を擁護したいという気持ちもありますが、それ以上に「日本の司法は何を守るべきか」という法律の根源に関わる問題だからでございます。

大川小学校は、海岸線から4kmもあり、公共の避難場所にも指定されていた。生徒を校庭で50分も待機させていたのを責められておりますが、先生方は「公の避難場所だからここで待たせるのが一番」と思ったでしょうねぇ。運が悪かったのは、「今、何が起きているのか」が先生方からは見えていなかったこと。

先生方には、こんな思いがあったかも知れませんよ。「もし、ここから移動させて死傷者が出たら、『どうして指定避難場所から動いた』と訴えられるかもしれない」と...良かれと思ってやっても、結果が悪ければ訴えられるというのは、最近よくあること。特に教員の方々は、日頃からビクビクしているかもしれません。すぐに学校や教員を訴えるという最近の世相が、大川小学校の判断を曇らせたという可能性はございます。

生徒の生死に関わる判断を、大川小学校はしたわけでございます。究極の判断だったと思いますよ。この問題を、「学校の過失」と決めつけてもいいのでしょうか? 状況が見えていない学校側にそのような重大な決定をさせているシステム全体に問題はないのでしょうか? そこで比較したいのが、アメリカの航空旅客機事故での、パイロットへの事故責任免責でございます。

アメリカでは、航空機が事故を起こしても、パイロットは責任を追及されません。免責されております。事故報告書をその後の裁判で使用することも出来ません。何が起きたかを正直にパイロットに話させるための、一種の司法取引でございます。これは「犯人捜し」よりも「システムの改善」を優先させているということ。アメリカは、航空機に関しては「法益は、安全性の改善に」という立場を取っております。

大川小学校の問題も、全体のシステムとして考えてみてください。学校は判断ミスをいたしました。しかし、そのミスを誘導してしまうような「システム上の欠陥」はなかったでしょうか? 現場の教師に判断を委ねるのではなく、何かしらの指示系統が必要だったのではないでしょうか? 2段階、3段階の避難計画を練っておくべきではなかったでしょうか?

学校側に責任を押しつけるこの司法判断は、システム全体の改善にはなんら繋がりません。航空事故で言えば、パイロットの判断に責任を押しつけ、それを取り巻く巨大なシステムの欠陥を見過ごすということでございます。今回の裁判に関しては、裁判所は「法益は、個人の利益に」という立場をとっております。この大衆迎合的でシステム全体を見ない判決が、実に残念でしかたありません。

遺族の方々は「この悲劇が繰り返されないように」「将来の学校防災の礎になるように」と発言されております。しかし、本気でそう思うならば、「犯人捜し」をしてはいけません。「どうして教員がそのような判断をしたか?」というシステム上の不備を追及するべきなのです。犯人捜しの結果このような判決が出ると、現場の職員の方々は、ますます足がすくんでしまうことにもなるかと思います。

かけがえのないお子様を失われて、そのやるせない気持ち、誰かのせいにしたくなる気持ちは重々お察しいたします。その傷心にムチ打つような言葉を投げかけたかもしれません。どうかお許しください。しかし、あえて言わせてもらいます。死んだ子供の年齢を数えてはいけません。これから生まれてくる子供達のために、何を変えるべきか、そこをもっともっと掘り下げるべきなのでございます。

ということで、ちょっと重たい話、最後までお付き合い、ありがとうございます。40〜50年前、公害訴訟が出まくっていた頃、日本の司法は「法益は、日本の成長に」という立場で、住民側が勝訴することは皆無でございました。今は、その真逆に振り切っている状態。ここらで、日本の司法は「法益のありかた」を考え直すときでもあると思います。


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