店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
蜘蛛の糸は、なぜ切れたのでしょう。カンダタが握っていたお釈迦様の蜘蛛の糸の事でございます。散々悪事を働いたカンダタも、1回だけ蜘蛛を助けるという善行をいたしました。善と悪を合わせ持った尊いひとりの人間として、お釈迦様はお助けになられたのでございます。
ところが、同じように上ってくる眼下の罪人に向かって「下りろ、下りろ」と言ったその途端、蜘蛛の糸は切れたのでございます。善悪でしかものを考えなかったカンダタが、この時ばかりは、他の罪人を「憎んだ」のでございます。物事を「好き嫌い」で考えた途端、蜘蛛の糸は切れたのでございます。
人は、善と悪の狭間で心が揺れていると錯覚しがちでございます。しかし、ワタクシが以前申し上げたように、善と悪は同じもの。つまり、善と悪で揺れるということは、同じものの回りをグルグル回り、ひとつのものを表と裏から見ているだけに過ぎないのでございます。
善と悪で揺れる心、この心は尊い心でございます。悪を見知ってこそ善に気づけ、善を見知ってこそ悪に気づけるからでございます。人の心が卑しく揺れるとき、それは「好き嫌い」で揺れるときでございます。好き嫌いに裏表はございません。振れた心の針は振り切れたままになり、何も気づけないまま、溺愛か憎悪の両極端の深穴に崩れ落ち、這い上がれなくなるからでございます。
瀬戸内寂聴さんがね、最近、好き嫌いでものを語っているのが、残念でしょうがありません。反原発への発言、安保法案への発言、そして今回、死刑制度廃止への発言。もちろん、持論を持つのは構いません。しかし、いやしくも宗教家ならば、もう少し達観(たっかん)した物言いを出来ないでしょうかねぇ。
達観とはどういうことか。達観とは、物事を上から見る事でございます。横からしか見ていないと、善悪の一部しか見えず、当然、心は好き嫌いの感覚で動きます。上から見て、善悪、功罪、可否、それらの両方が見えてきますと、見ているものが愛(いと)おしくなってくるものでございます。達観とは、超越した目や耳で見聞きし、愛を持って接する事に他ならないのでございます。