店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
き~ぃよぉしぃ~~、こぉ~のよぉ~る~...ということでクリスマスでございます。とかく日本人は、クリスマスを祝う、神社へも行く、お寺へも行くと、節操が無い宗教観を持っていると揶揄されるものですが、今日は、そんな浅はかな揶揄を吹き飛ばしちゃうのでございます。
日本の神様は「八百万神(やおよろずのかみ)」と申しまして、自然界のあらゆるものに神様が宿っているという「多神教(たしんきょう)」の考え方でございます。これに対するものが「一神教(いっしんきょう)」。世界的には、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった一神教が圧倒的多数で、日本の八百万神は少数派になるわけでございます。
さぁ~て、日本の場合は、この多神教的な宗教観に、ちょいとスパイスを与える人物が現れるのでございます。彼の名は「世阿弥」。15世紀、室町時代の能役者でございます。もっとも、当時は「猿楽」と申しておりました。この世阿弥が、猿楽に新しい境地を見いだすのでございます。
猿まねなんて言葉があるように、世阿弥以前の猿楽は、単なる「物まね芸」でございました。自然界に有るもの、老若男女を写実的に真似ることを目的としておりました。ここに、「心」が必要だと説いたのが、世阿弥だったのでございます。
え~と、世阿弥は研究がやり尽くされておりますので迂闊なことを書くと怒られそうですが、勇気を持ってドンドン進んで行きますよ。世阿弥は、万物を真似るだけではなく、「万物の『心』を自分の中に見いだし、そこから醸し出る演技こそが誠(まこと)である」と演技論をぶっこいたのでございます。
単なる物まね芸から、精神世界の表現に至ったわけでございます。で、猿楽には、「神様」も登場いたします。するとですねぇ、神を演じようとすれば、自分の外にいる神を単に真似るのではなく、自分の中に神を見いだすことが必要となってくるのでございます。
この「自分の中の神を見つけ出すべし」という一説、世阿弥が晩年に書いた「花鏡(かきょう)」という書物に書いてあったような気がしたのですが、今、手元に訳注本がございませんので確認出来ません。学生時代に、ワクワクしながらその部分を読んだ覚えが有ったのですけどねぇ。
ワタクシ、思うに、日本が「道(どう、柔道・華道など)」という精神世界を重要視してきたのも、こういった考え方が影響しているのではないかななんて想像するのでございます。その「道」でよく言われるのが「心・技・体」。「心」を見いだしたときに誠の「技(わざ)」が見つかると説いた世阿弥の言葉に通じるのでございます。
自然界の全ての物には、神が宿っている。その考え方が、日本人を綺麗好きにし、物を大切に扱うような民族にしたのかも知れません。同時に、全ての人には、神が宿っている。その考え方が、自己よりも他を大事にする思いやり・おもてなしの精神を成熟させたのかも知れません。
冒頭で述べました、日本人がクリスマスも祝い、寺社仏閣にも通うということ、ワタクシは「節操が無い」とは考えません。むしろ、「寛容」なのでございます。全ての物や人に神が宿るという想いに起因する「謙虚さ」、これが「全てを受け入れる」という寛容さに繋がっているのでございます。