店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
昨日は、日本人とアメリカ人の感性の違いってのに、少し触れておりました。そこで今日は、別の角度から、その違いを紐解くのでございます。題材は「百人一首」。ピーター・J・マクミランという方が百人一首を英訳しておりまして、その中から「小野小町」を選びましょう。では、はじまり、はじまり~~~。
花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに
「桜の花の色はすっかり色褪せてしまったなぁ...長雨が降り続いて空しく日々を過ごしている間に」という意味でございます。この歌には、もう一つの意味がございますが、それは後ほどに。で、これを英訳するとどうなるか? これでございます。
I have loved in vain and now my beauty fades like these cherry blossoms paling in the long rains of spring that I gaze upon alone.
結論から申しましょう。元の小野小町の歌、これは「はぐらかし」の集大成でございます。一方、ピーターさんの英訳はともうしますと、これが実にダイレクト。一点の曇りもなく、写実的に表している。では、1行目から紐解いて行きましょう。
まず、英訳の1行目、いきなり「I have loved in vain」と来ちゃいました。いやぁ、シビレル! ロックだねぇ! いきなり本題に入っちゃいますか! 実は、この歌には意味がもう一つございます。「私の容姿はすっかり衰えたなぁ...空しく恋に時を過ごし、もの思いにふけっている間に」という意味が隠されているのですが、それをズバリ、最初に、言っちゃいますかぁ。いやぁ、ロックンロール!
一番大事なことを最初に言うのは、住所表記でも現れてますよね。欧米の住所は番地やストリート名から先に記述して、州とか国はいちばん最後に書く。日本は逆。大まかな区分から記述し、徐々に細かく書いていく。やはり、アメリカ人、ロックなんですよ。まず、ハートの叫びがあり、細けぇ説明は後でいいんだよっていうノリなのでございます。
この歌には「はぐらかし」が有ると申しましたが、それを一つ一つご説明いたしやしょう。まず、和文では、自分の「容姿」に関して言及しておりません。あくまでも主題は「花=桜」でございます。その桜の色褪せを語りながら、「私の心情を勝手に想像してね」っていうスタンスなのでございます。
歌に二つの意味を持たせたため、和文には二つの「時間軸」が重なっているのでございます。ひとつは、桜が色褪せる春の日の数日間という時間軸。もう一つは、若い頃から恋遍歴を重ね今は年老いてしまったという小野小町の人生。桜が色褪せた数日間を自分の人生に投影するという、実に繊細かつ壮大な重ね合わせが有るのでございます。
まだまだ有りますよ~。歌に二つの意味を持たせるため、ところどころ言葉のマジックをしているのでございます。「ふる」は「(時を)経(ふ)る」と「(雨が)降る」の二つの意味が。「ながめ」には「眺め」と「長雨(ながめ)」との二つの意味を含ませております。同音異義語が多い日本語ならではの、「掛詞(かけことば)」というテクニックでございます。
和文、第三句の「いたずらに」という語。この語は、この歌のキーワードなのでございます。英訳でも冒頭に現れた「vain」という単語がそれ。「無駄に」「空しい・儚(はかな)い」という意味でございます。この語が、桜の色褪せを表すとともに、作者の心情も表している。
そして、この「いたずらに」が歌のまん中に配置されているというのも、ミソ。小野小町のニクイ演出でございます。「いたずらに」が、「うつりにけり」に掛かっているのか「世にふる」に掛かっているのかを、はぐらかしている。桜の花も儚いけど、私の人生も儚かったなぁと、「いたずらに」という語が歌全体にベールを掛けるように色づけているのでございます。
和文は、はぐらかしの集大成。一方、英訳は、隠れた主題をいきなり登場させ、オーバーラップされた二つの意味、二つの時間軸は、それぞれ別に書き連ねる。ですので、一文一文の表現や時制は明瞭。余談を挟む余地は無し。まぁ、英語でも”はぐらかした表現”は出来るのでしょうけど、英訳者のピーターさんは、難解な詩になるのを恐れたのかも知れませんね。
長くなっちゃいましたが、いかがなものでしょう? 日本語の表現ってのは、古来から「はぐらかし」の集大成なのでございます。特に「心情を赤裸々に語らず、はぐらかすのが風流」という考え方がございます。一方、英語の表現というのは、ダイレクト。表現がロックンロールなのでございます。