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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2017-03-14 【ゆとりが出来ても、ゲームに浪費していたのでは...】

3月14日、今日は何の日? って聞かれたら、まぁ普通は「ホワイトデー」と答えますわな。しかしですなぁ、「数学の日」「円周率の日」「(食品の)パイの日」でもあるようでございます。「円周率(πパイ)がほぼ3.14」に由来しているのでしょう。

この円周率、ある時期、「3」として学校教育で扱われた事がございます。世界的に「3.14で何とか上手く折り合いを付けましょう」と合意が出来ていることなのに、あえて「3」にする勇気、こんなんも「嫌われる勇気」と申すのでしょうか?

「ゆとり教育」の代名詞とも使われたこの「円周率=3」ですが、あまり意味がなかったのか、結局、元の3.14に戻されましたね。そりゃそうだと思います。小学低学年に説明するのならともかく、小数を理解している年代で、あえて端数を切り取る必要はないと思うのでございます。

この円周率問題を考察するに、「ゆとり教育」への思い違いが有ったのではないでしょうかねぇ? 「ゆとり」ってのは辞書を引くと「余裕」とか「隙間」なんて書いてございます。和英辞典で引くなんて変わった事をしますと(ワタクシはよくやります)、「leisure(余暇)」なんて語も出てまいります。そう「ゆとり教育」の本来の意味は、「時間的なゆとり」だったのではと勝手に推測するのでございます。

学校の週休2日制が進められたのも、ちょうどころころではなかったでしょうか。「詰め込み教育」をやめ、暗記中心の教育から「思考するゆとりのある教え方」を目指したのが本来の目的だったような気がいたします。それが、なんで「円周率=3」になったのかは、ほんと変でございますよね。きっと、ゆとり教育推進派の人達によって偶像として祭り立てられてしまったのではないか、なんていう勝手な推測を、またまたしてしまうのでございます。

ワタクシは、完全なゆとり教育「前」の年代。究極の詰め込み教育時代を過ごしてまいりました。確かに、記憶しなければならない量が、ハンパなかった。しかも、中学校以降は、各教科ごとに先生が代わる。故に、各教科ごとに生徒はその教科のエキスパートになることを要求される。これは、無理。どうやったって詰め込みになってしまう。

これはさ、記憶中心の歴史関係と、論理的思考を使う理系教科と、その両方でエキスパートになるなんて、ほんと不毛。「二兎を追う者は...」なんてことわざもございます。懐かしの共通1次試験の受験勉強をしながら、こんなことを考えておりました。

ゆとり教育を進めた人達は、ここに注目すべきだったと思いますよ。教える内容を間引くのではなく、教える教科を減らし、「記憶すべき事柄の”総量”」を減らしてゆとりを持たせるという考え方。そのゆとりを利用して、より専門的に深い教育を目指すのでございます。何でも知っているスーパーマンを育てるのではなく、特定の分野のエキスパートを育てるという考え方ですね。

と、ここまで書いてきて、今の学校教育がどうなっているのか、とんと見当がつきません。ドラマの「下克上受験」なんかを見ておりますと、やはり学校教育と塾とのダブルスタンダードが起きているようですし、小学校の算数で、「9」という答えに「9.0」と書いたら減点されたという窮屈さもあるようでございます。

学校教育のかなり早い段階で、能力別の授業を取り入れるべきじゃないかなぁと思うのでございます。出来る人と遅れている人を同じ教室に置くというのは、「平等」だとは思いません。遅れている人が一方的に「学ぶチャンス」を失いますので、ある意味、差別的行為であるとも言えます。

今、子供の数が減ってきて、学校施設も教室などが余り始めているそうでございます。施設にゆとりがあるのなら、後は学校の先生方にゆとりが出来るといいのですけどね。そのとき、初めて、本当のゆとり教育が実現するような気がいたします。

なんか、勝手な事ばかり申してきました。トンチンカンなことを言っているかも知れません。まぁ、そんなときは、どうぞお叱りの言葉を。3と3.14にまつわるお話でした。


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