店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
さて、本題。2日ほど前、「イライラ」のテーマで「拘りを棄てる」と申しました。実はですね、若い頃は逆で、「拘りこそ美学」と思っておりました。そこで、広辞苑の登場! 「拘る」の項目には、「さしさわる」「難癖をつける」といった意味に並んで、「些細な事に捉われる」「些細な点にまで気を配る」といった意味が並んでおります。
いやぁ、実に面白い。「些細な〜」という書き出しで、プラスとマイナス、両方の意味が書いてございます。この言葉は日常的に良くも悪くも両方の意味で使っておりますので、まぁ、道理至極なことではございますよね。ただ、ひとつの言葉に2つの意味があると言うよりは、正反対の2つの意味が、表裏一体でひとつの言葉に張りついていると考えた方がよろしいでしょう。
あるひとつの拘りが、プラスにも働けばマイナスにも働くということでございます。これは感覚的にすぐ分かりますよね。拘りというのは、時として「美学」になり、「哲学」になります。しかし、それは同時に「泥(なず)む」ということでもございます。聞き慣れない言葉でしょうが、文字通り、泥に足を取られて停滞してしまうという意味でございます。
自分がより美しく生きようとする美学としての拘りが、同時に自分を停滞させてしまう足かせになってしまう。これが「拘り」の奥深いところでございましょう。両刃の剣なのでございます。若い頃には、拘りの良い面が出やすい。若い頃の拘りは「自らの改変」を要求しますからね。でも、歳を取ってからの拘りは、悪い面が出やすい。それは、歳を取っての拘りは「確執」や「執着」だからでございます。
そこで、歳を取ると、「拘りを棄てる」ことが重要になってくる。拘りを棄てて「あるがままを受け入れる」のが肝要になるのでございます。これはもはや「宗教」でございます。そう、「哲学」から「宗教」への変化でございます。哲学も宗教も似て非なる物。どちらも「どう生きるか」ということを追及してはおりますが、その内容は真逆だったりいたします。