店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
老人にドーナツを食べさせ、それが喉に詰まって窒息死。ドーナツを提供した准看護師が裁判にかけられておりました。まだ判決が確定したわけではございませんが、高等裁判所は一審の有罪を翻して無罪判決を言い渡したのでございます。
どうしてこれが、裁判沙汰になってしまうのでしょうかねぇ? で、この裁判では、ワタクシは次の点に注目しております。「喉に詰まらせた後の処置」ではなく、「ドーナツを提供したこと」で裁判になっていることでございます。もうね、インネンとしか思えないような裁判理由でございます。
これは誰が訴えるのでしょう? 家族でしょうか? それほどに、家族と養護老人ホームとの信頼関係が成立していなかったのでしょうか? これを起訴に持ち込んだ検察も検察ですが、一審の地方裁判所では「有罪」判決も出ている。あぁ、バカらしい、バカらしい。看護・介護に従事する人を、どうしてそれほど追い込むかなぁ?
2011年、さいたま市の小学校で、6年生の女生徒が体育の授業中に突然倒れるということがございました。先生方はすぐに脈と呼吸を調べ、どちらも確認。保健室に運んで救急車の到着を待ちましたが、その到着までの10分足らずの間に女生徒は手遅れになり、帰らぬ人に。
その女生徒の母親は看護師でございました。倒れた時に痙攣をしていたという他の生徒の証言から、心肺停止していたのではという疑問を持ち、脈も呼吸も有ったと主張する学校側と全面対立。あわや裁判かという状態になったのでございます。
間に入ったのが、さいたま市教育委員会。「対立するのではなく、今後、同じような事故を起こさないための原因究明をしましょう」と両者を説得。専門家に検証をお願いしたところ、「先生は自分の脈を感じて『脈がある』と錯覚した」「心肺停止時に発生する死戦期呼吸を通常の呼吸と勘違いした」という結論に落ち着いたのでございます。
ここで、さいたま市教育委員会は、原因究明したことで足を止めませんでした。同じような事故を起こさないために、この事例をレポートとしてまとめ、全国の教育関係者に周知する運動を始めたのでございます。女生徒の母親も、その運動に参加されているとのこと。そして、その女生徒の名前が、運動のタイトルとして使われたのでございます。「失敗」を「智恵」に昇華させた好例でございます。
不運な事故で誰にも悪意が無かったにも関わらず、両者の関係がどんどんこじれていってしまう。賠償請求のことを考えると、「自分の行いは正しかった」という正常性バイアスに陥ったり、あるいは隠蔽に走る団体が有るかもしれない。今後の同様な事故を未然に防ぐ為の絶好な検証事例かも知れないのに、いがみ合いで終止してしまったりとか。あぁ、建設的でないねぇ。
こういった対立、最初に「ごめんなさい」と謝ることで両者の軋轢がかなり無くなるものでございます。謝罪だけで、全て丸く収まる可能性もございます。ただ、この最初の謝罪が「過失」を意味するとして、裁判で証拠採用されかねない。で、頑なに謝らない。あぁ何という悲劇か。「まず謝罪」というのは、クレーム処理でも重要かつ必須な初期対応ねんですけどねぇ。
個人に対して刑事責任を課さない。これは、諸外国の航空機事故でパイロットに対する扱いと同じでございます(日本はまだ無い)。刑事責任を追及すれば、保身に走る。すると、原因究明のための正しい証言が得られない可能性が出てくる。原因究明と今後の予防を優先するため、個人への責任追及は放免するのでございます。日本の医療裁判とかでも、これ、やって欲しいなぁ。