«前の日記(2020-06-01) 最新 次の日記(2020-06-03)» 編集

薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

2008|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|10|12|
2015|01|03|12|
2016|01|02|03|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|

2020-06-02 【リアリティーを騙る作為】

若い頃、貧乏劇団に所属してまして、舞台とかも出たわけでございます。ある演目で、「意地悪な刑事」という役を演じたのですよね。なんか、ワタクシのはまり役なのでしょうか(笑)、この役がピッタリはまってしまいまして、客席の人をかなりイライラさせる刑事だった様でございます。

客席に、その演目のヒロインにぞっこんな男性が来ておりまして、舞台を見ながら思ったそうでございます。「あの刑事、幕が開けたらぶん殴ってやる」と...まぁ、おっかない話ではございますが、そこまでイライラさせたのなら、これは役者冥利に尽きるというもの。で、ワタクシとそのぞっこん男性は、その後、どうなったかと申しますと...

演目が終わった瞬間、そのぞっこん男性はイライラの呪縛から解き放たれるのでございます。なぜなら、舞台には必ず「カーテンコール」があるから。登場人物全員が、ニコニコして手を繋ぎながら舞台で挨拶する。これを見て誰しもが、「あぁ、今のは『お芝居』だったのだな」と察し、魔法を解かれるのでございます。

あるいは、かつて『女王の教室』というテレビ番組がございました。天海祐希が小学校の先生を演じております。この先生が、まぁ厳しい。まるで悪魔か鬼。そしてニヒリズム溢れる衝撃的な台詞を連発する。小さな子供がトラウマを持ちそうな内容でしたが、このドラマのエンドロールが、それを防いでおりました。

ドラマの最後にスタッフの名前とかが流れていく画面が、エンドロールでございます。そのエンドロールの背景に使われていた画像は、収録直後の緊張感の抜けた、にこやかな天海祐希さんの顔でございました。タレントのイメージダウンを防ぐための事務所の指示だったのかも知れませんが、そのエンドロールが多くの視聴者のトラウマを未然に防いでいた可能性はございます。

あぁ、もうひとつ思い出した。子供の頃に見た『ガンバの冒険』というアニメ。ハラハラ、ドキドキ、ワクワクするストーリーを、毎回、目を見張って見ておりました。そして最終回、衝撃的な結末の後に、なぜかアニメなのにカーテンコールが! 心が絞られるような最終回の後に、画面に溢れる笑顔のカーテンコール。子供ながらに、複雑な心境になったのを覚えております。


リアリティー番組「テラハウス」の登場人物の1人が、自殺されましたね。リアリティー番組で、運悪く「憎まれ役」になってしまった人が自殺をしてしまう例というのはアメリカでは時々有るそうですが、とうとう、日本でも起きてしまいましたか。

ワタクシ、あの手のリアリティー番組が、大っ嫌いでございます。演出なし、台本なしとかを謳い文句にしてますが、やはり舞台経験のある人間からすると、何かしらの「作為」が見え隠れする。その「リアリティーを騙(かた)った作為」が、どうにも気分悪いのでございます。

仮に、登場人物の「ありのまま」を収録したとしても、その後に「編集」という作業が必ず行われる。この編集というのがくせ者で、映画などでは監督、カメラなどと並んで重要なお仕事が「編集」をする人。撮影した映像は単なる「素材」であって、それを芸術作品に組み上げていくのは編集さんの仕事で有ると言っても過言ではないでしょう。

ここで、ワタクシの衝撃発言! ある登場人物を憎まれ役にするのも悲哀に演出するのも、全て編集で自由自在なのでございます。どんな憎まれ役でも、愛らしい表情をする瞬間は必ずある。そこを編集で拾うか捨てるかの違いで、その登場人物のイメージはいくらでも操作出来たりする。そこが編集の怖さでございます。

かつて、「公(おおやけ)」と「私(ワタクシ)」の間には大きな壁が立ちはだかっておりました。しかし、ネットで自由に発言できる時代になると、その公私の間の壁はほとんど無くなっております。ネットの無かった時代は、新聞に載る・テレビに出る・自分で本を出す、なんてことをしないと発信できなかったことが、今やツイッターなどで自由に発信できるからでございます。

そして、自分が登場人物の1人でもあるかの様に、誹謗中傷をまくしたてたりする。昔の役者さんなら、そんなのを「お芝居と現実の区別もつかないのか」と一蹴したものでございますが、今のシロウトの出演者さん達は、まともに受け止めてしまうでしょうね。

今後、「テラハウス」の様なリアリティー番組では、最後に楽屋裏を映すとかカーテンコールをやるとか、そういった配慮が必要になってくるでしょうねぇ。リアリティーではあるけれど、そこには「番組を成立させるための編集などの作為」が必ず介入しているのでございます。この大前提をきちんと伝える事も、製作者側の責任だと思いますよ。

余談ですが、長年続いている『徹子の部屋』という番組。あれは、黒柳徹子さんの意向で、「収録ではあるけれど実寸で撮影して編集をしない」という方針を硬く守っているそうでございます。テレビドラマの黎明期から活躍されているお方、編集の怖さを身をもって知っているのかも知れませんね。では、では。


«前の日記(2020-06-01) 最新 次の日記(2020-06-03)» 編集