店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
何が原因なのでしょうねぇ。まぁ、ワタクシも最近は「説明文」というものを全く読まなくなったので、高校1年生をあまり責める訳にもいかないのでございます。もっとも、ワタクシが読まない理由は、細かい字が見えないからでございますけどね。
そのテストを受けた生徒の中でも、普段から小説を読んでいる人の正解率は飛び抜けて良かったそうでございます。確かに小説ってのは、主語が省略されていたり、回りくどい表現だったりとかで、読解力が鍛えられそうでございます。
晩年のワタクシの母親も、何かと言葉足らずでしたよねぇ。思いついたことを補足説明なしに唐突に話し始めるので、母親が何を言い始めたのかを理解するのは、いつも大変でございました。その母親暗号をを読解できたのは、世界でワタクシだけだったでしょうね。読解をめぐって、よく親子げんかもしたものでございます。
ワタクシは、よく小説は読みましたよ。でも、国語の成績はあまり良くなかった。とくに、「○○の部分は、作者は何を言いたかったのでしょう」みたいな設問は、だいたいダメ。模範解答で答えておけばいいものを、そのもうひとつ裏読みをして答えちゃうのですよね。で、いつもバツ。だって、模範解答って、退屈じゃん。
その教授曰く、「本当は、○○に生きたい」と思う人間の感情、それが文学性であり、小説などのモチーフなのだそうでございます。「○○と、日記には書いておこう」なんてCMが昔ございましたが、まさにあれが、文学性なのでございます。
ですから、小説ってのは「様々な生きざまの理想型」が散りばめられているのでございます。綺麗な生きざまも有れば、ドロドロの生きざまも有る。どんな生きざまであっても、そこには作者の美学が埋め込まれているのでございます。どうか、感受性の豊かな若い時期に、ありとあらゆる小説を読みふけって、人生の美学を感じ取って欲しいものでございます。
「金八先生」というドラマが流行したときに、「ドラマの内容は理想論であり、現実とは乖離している」という批判がございました。その時、かの武田鉄矢氏はキッパリと言い放ったのでございます。「理想を見なければ、現実は語れない!」と。
「理想」を持ち、すると「現実」が見えてくる。「2点と方向」が定まれば、そこから生まれてくるのは「ベクトル」。人生のベクトルとは何か? それは、「今、どちらに一歩踏み出せば良いか」という方向付けでございます。