店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
つらくて、つらくて、寂しくて、寂しくて、それでも、お父さんとお母さんのことが大好きで、そんな想いのまま、お腹をすかせて死んでいったのでしょうね。良い子にするからと綴った彼女の文字からは、虐待されながらも、なお、両親を愛し信じている幼い心が読み取れるのでございます。
両親は、「まさか死ぬとは思わなかった」と思っていたのでしょう。子供への親の愛は、無償の愛。見返りを求めない愛でございます。この両親は、そんな親の愛を、どこか学び損なったまま成人してしまったのでしょうか? 逮捕され、今、留置場で何を思っているのでしょうか?
人が「愛」を学習する過程には、4段階ございます。最初は、赤ん坊から幼児期にかけて。この時期の子供は無力。食事・着替え・お風呂、全て親が面倒を見ることになるのでございます。言葉は分からずとも、その親の懇切な世話を子供は「無償の愛」として学習し、心に刻み込むのでございます。
次は幼少期。言葉を覚えますと、同時に「ウソをつく知恵」も身につけるようになる。この時期に獲得するのが「打算の愛」でございます。「よい子にしていればお菓子を貰える」的な愛情表現でございますね。愛の本質を分かっているわけではなく、「好き」とか「嫌い」といった感覚で愛を考える時期でございます。
思春期に獲得するのが、「利己的愛」。続に言う「恋」といういうものでございます。恋は盲目なんて言いますように、この利己的愛というのは、ただひたすら、自分の心の隙間を埋めたいと思うのでございます。この利己愛を真の愛と勘違いすると、ストーカー行為の様なことになってしまうのでございます。
そして、最終段階、結婚・出産を経て家族・子供を持ちますと、自分の子供に対して芽生えるのが「利他的愛」。つまり、無償の愛と呼ばれるものでございます。「子供のためなら自分の命を捧げてもいい」と親は思うもの。この無償の愛を赤ん坊に与えることで、この愛の学習は永久ループとなり、後世に伝えられるのでございます。
ここでね、ある重要な因果がございます。赤ん坊・幼児期に親から受けた「無償の愛」、これが、その人の、その後の愛の獲得における、「たたき台」になるのでございます。親から受けた無償の愛を「お手本」にし、打算の愛、利己的愛と学習して、最後に利他的愛まで辿り着くのでございます。
打算の愛、利己的愛というのは、人間の本能に起因する感情でございまして、仮にお手本が無かったとしても、自然に獲得できちゃう愛でございます。打算の愛は、食欲・物欲に起因する。利己的愛は、性慾・生殖本能に起因する。一方、利他的愛・無償の愛というのは、「理性の愛」。人は、生殖本能を超えた普遍的なものへと、この無償の愛を与えることが出来る生物。人智が生み出した愛の形でございます。
そしてね、もし、この理性の愛を獲得できないと、その人は本能のみで生きる人間になってしまうのでございます。冒頭でお話した事件の親たちは、この理性の愛を学び損なったまま、本能のおもむくままに生きてきたのかも知れません。そして、不幸な事件に...原因は、この両親のさらに親に有るのでしょうか? 児童虐待やネグレクト(育児放棄)は、代々まで連鎖するのでございます。