店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
小学校の授業、「英語」と「道徳」の授業で、学校の先生方が苦労されているそうでございます。まず英語は、先生方が苦手ときている。これはぁ困ったものでございます。小学校は、学級担任の先生が全教科を教えますから、先生は逃げ場がない。日本中の小学校の先生が、今から猛特訓をしているそうでございます。
小学校と言えども、英語と音楽だけは専門の先生でよろしいかと思いますけどねぇ。この二つの教科に共通するのは「音」、耳から学ぶ教科なのでございます。人間の聴力は20才くらいがピークと言われてますが、ワタクシはもっと早いと思っております。小学校の低学年くらいには、すでにピークが来ているのではないでしょうか。
と言うのもですね、小学校の高学年くらいになると、音を「文字」として脳内変換するようになってしまう。つまり、聞いた音を自分の知っている文字に当てはめようとしてしまう。LもRも同じラ行にしてしまうというのもこれ。聴力は高くても、余分な知識が足を引っ張っている可能性がございます。
ですから、聴力の能力が高く音声をダイレクトに感じ取れる小学校低学年に「本物の発音」を聞かせるという事は、英語教育では重要だと思っております。そして、無理に会話を成立させようとしないこと(コレ重要だと思う)。適当でデタラメでもいいから、「英語に触って楽しむ」ということが重要だと思っております。と、まぁ、ワタクシなりの理想を勝手に申し上げました。
さて、さらに大変なのは「道徳」の授業。今までの道徳の授業は「余興」でしたので、先生が勝手に他の遅れている授業を差し込んだりしちゃいましたが、これからは正式な教科となり、通信簿の評価も付くそうでございます。あぁ、先生方の苦労と不安、お察しいたします。
羮に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)、今の日本の道徳教育がこれでございます。かつての日本帝国軍国主義という熱いお吸い物に懲りて、「道徳」と名が付くもの全てに足がすくんでいる状態なのでございます。それで、「道徳教育はやらないほうが良い」なんて極論も出てくる。いや、道徳ってのは、もっと当たり前で自然なことなんですけどねぇ。
そこで、ワタクシからの提案。道徳教育の三本柱を決めましょう。「協力」「奉仕」「痛み」でございます。そして重要なのは、これら三本柱の基礎を、小学校低学年で固めてしまうということ。価値観が定まっていない時期に「洗脳」してしまうのでございます。あぁ、言葉が悪くて語弊を招きそう。でも、高学年になってしまうと「照れ」とか「反抗心」が出てきて難しくなる。低学年が狙い目なのでございます。
では、低学年にどうやって道徳を教えるか? 遊ばせるのでございます。それも、協力しないとうまく行かないような遊びを。遊ばせることで、「道徳は楽しい」と思わせるのでございますよね。そして、遊びながら「協力すること」を自然に学ぶようにさせるのでございます。というか、今の子供はゲームで「協力」を学んでしまう。ゲーム的な価値観が染みこむ前に、子供同士の生身の協力を体感させるのでございます。
道徳の授業の40%は遊びでいいでしょう。次の40%は、「奉仕」の授業。学外に出て、道路を掃除したり、シャッターの落書きを消したりさせるのでございます。「ゴミを捨てない」「落書きをしない」なんて言うのも重要な道徳心。それを身につかせるには、ゴミを拾う側の気持ち、らくがきを消す側の気持ちを体感させるのが一番なのでございます。小さい子供には、文章で読ませるより、体感させるのが一番なのでございます。
さぁて、大変なのが残り20%の「痛み」でございます。これは「いじめ」とか「差別」に関わってくるのですよね。いじめに関する今の学校の問題点は、いじめを「無くそう」と考えている。もうね、これが大きな間違い。無くせないものを無くそうとすれば、陰湿になったり(子供も先生も)隠蔽に走ったりと、ますますたちが悪くなるのでございます。
いじめが深刻化する原因は、子供に「いじめる側の痛み」が備わっていないからでございます。ワタクシ、断言いたします。幼少期には、「いじめる経験」「いじめられる経験」、この両方が必要だと思っております。その両方に痛みがあり、両方の痛みを体感することで、健全な価値観が育まれると思っております。
いじめられて心が痛いのは当たり前。では、「いじめることの心の痛み、後味の悪さ」をどう教えるか?「いじめて痛い」というのは、「思いやりの心」であり「想像力」なのでございます。この想像力っての、成人になっても身についてない人が大勢いらっしゃいますよねぇ。実は、思いやりとか想像力というのは「技術」なのですよ。ですから、幼少期に、方法論を持ってきちんと身につけさせてやる必要があるのでございます。