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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2017-11-08 【狩猟民族と農耕民族の違いかもね】

アメリカのプロ野球、メジャーリーグには、不文律ながらも暗黙の了解ルールがございます。デッドボールで投手は打者に謝ってはいけないというのも、そのひとつだそうでございます。これは、「ぶつかる方が悪い」ということらしく、アメリカ的な個人主義を感じるのでございます。

このアメリカ的個人主義は、食品の賞味期限にも現れているそうで、最近、こんなコラムを見つけたのでございます。

この記事を読みますと、アメリカでの賞味期限表示がそもそもいい加減であること。ゆえに、アメリカ人は皆、自分の目と鼻で確認して食べているということ。さらに、もしお腹が痛くなっても、それは自己責任とみんな割り切っていること。そんなアメリカ事情が分かるのでございます。

まぁこれは、信号機のルールにも同じような事がございまして、赤信号を律儀に守る日本人は、外国人から見ると「信号機を崇拝している」と見えるかも知れませんよね。それでなくても、日本の信号機は、黄色が有って、点滅したり、秒数が出たりと、至れり尽くせり。GOとSTOPしかないアメリカの信号機とは対照的でございます。

以前、「物事を判断するにはそれなりのエネルギーが必要」というお話をいたしました。これを考えますと、アメリカの人は、ただ道路を歩く、道を渡る、食品を購入する、こんな日常の風景の中でも、その度ごとに自分の目や耳や鼻で「判断」を繰り返しているのでございます。そのエネルギーたるや、ご苦労さまなのでございます。

これは、銃の国ゆえと考えられるかも知れません。自分の身は自分で守るのが常識。だから、「自分で判断する」のが当たり前の価値観として染みついているのでございましょう。アメリカの人は、実に緊張感に溢れた生活をしているようでございます。

一方ですね、賞味期限を崇拝する日本人は、「楽」ということに慣れきってしまったのではないでしょうか? つまり、「判断しなくていい」というのは、「楽」なのでございます。食品は完全に衛生管理され、不良品が出たら全製品回収、山で遭難しても海で漂流しても国家公務員が命がけで助けに来てくれる。この楽さ加減に、日本人は皆、ズボラになっているように感じられるのでございます。

ワタクシは、食品の賞味期限は「参考」程度でございます。かなり古いものでも、自分で味見をして判断いたします。一般の賞味期限がかなり余裕のある設定だということも有りますが、一番の理由は、賞味期限というただの数字に自分の身を委ねたくない、つまり、何も考えずに前へ進むということが許せないのでございます。

今の日本の世論は、「テレビ番組で言っていたから」とか「有名な芸能人が言っていたから」ということに左右されすぎでございます。そうなるのは、他人の受け売りをそのまま信じるのは「楽」だからということでしょう。テレビや芸能人を信じるなとは申しません、ただ、無批判で世の中が一色に染まってしまうこと、それは危険なことでございます。

「ゆとり教育」の本来の趣旨は、「模範解答を導き出す」という従来の教育から脱却し、「答えが出ないかも知れないけど自由に発想させる教育」というものだった様な気がいたします。これがいつの間にか、「のんびりしたカリキュラム」というトンチンカンな方向に走ったのは、残念なのでございます。今一度、自分の頭で考えさせるような教育を、小学校の低学年に組み込んで欲しいなぁと思うワタクシなのでございます。

自分の頭で考えるということは、疑ってみる心、つまり「懐疑心(かいぎしん)」でございます。物を疑ってかかるのはよろしいのですが、人を疑ってかかるようになると、これは「猜疑心(さいぎしん)」となってしまいます。猜疑心は、人生の運を取りこぼしやすくなりますので、程々に。

ということで、1年前のカルピスウォーターでも平気で飲んでしまう名古屋薫でございました。では、では。


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