店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
本日のNHKスペシャルは、人工知能がテーマでございました。その番組の一部で、コンピュータの人工知能に「思い遣り」を学習させるという一節がございました。「思い遣り」を覚えたロボットは、他のロボット(の心)を傷つけるような命令を何度も強要させられたとき、命令を拒否していくうちに、最後はとうとう泣き出してしまったのでございます。そう、ロボットが他のロボットの心を思い遣って、泣いたのです。いったい、どうやって人工知能に「思い遣り」をインプットしたのでしょうか? それとも、単なる重層な条件分岐プログラムの結果としての「社交辞令」なのでしょうか? 興味深い部分でございました。
ワタクシも他人にこの「思い遣り」を説明しようとしたときに、この語の説明の難しさに戸惑うことがございます。それは、「真の思い遣り」とは別に、巷にあふれかえった「打算の思い遣り」が有るからでございます。「打算」というと非常に人聞きが悪くなりますが、人間とは本来、打算で行動するという“本能”がある生きもの。ですので、打算で人と接するということはしごく普通のことなのでございます。しかし、このふたつの思い遣りの違いを理解していないと、つまり「打算的行動なのに、それを真の思い遣り(愛情)だと思い込んでいる」と、それは、その人本人を苦しめることになるのでございます。
ギブアンドテイクなんて言いますが、真の思い遣りは、純粋に「Give」だけでございます。ほんの少しでも、見返りを期待する心があったなら、それは「打算」でございます。思い遣ってあげたのに相手が全く反応しないとか、あるいは大きなお世話だと言われたとか、そんなときに少しでもカチンと来たのなら、それも打算です。
真の思い遣りは、「好き嫌い」に左右されません。どんな相手でも同じように接しられること、それが真の思い遣りなのでございます。「この人には思い遣ってあげられるけど、あの人にはチョット」とか思うときには、そこには打算が入り込んでおります。さらに、自分に損害を与えたような人にまで同じように接しられるか? これは、かなり厳しいチェックポイントですが、「真」を見極める上で、重要な事でございます。
突き詰めると、真の思い遣りというのは、キリスト教でいうところの「無償の愛」のようなものになるのでございます。もちろん、世の中の人すべてが、達観した宗教家のような行動が出来るわけではございません。ですので、世の中には「打算の思い遣り」であふれかえっているわけでございます。そして、その打算と打算の相互関係のもと、世の中というのは、“それなりに”うまく回っているのでございます。
「じゃぁ、『真の思い遣り』なんていらないじゃん」と、思えてきますよね。でも、この「真」を分かっているのといないのとでは、大違い。ふたつの思い遣りの違いを理解することで、世の中を、まるで箱庭を上から覗くように俯瞰(ふかん)することが出来るのでございます。