店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
「品格」を精神として理解できなかったのですから、当然、「相撲道」の「道(どう)」という概念も理解できていなかったはずでございます。さて、この「道」を考える上で、日本相撲界には大きなジレンマが存在するのでございます。それは、相撲人気のほとんどを外国人力士に頼んでいるにもかかわらず、あくまでも「相撲“道”」を推し進めていかなければならないというジレンマでございます。似たような事情を持つ「柔道」で説明いたしますと、「柔よく剛を制す」という柔道の精神から考えると、柔道には重量別の階級制度は存在してはいけないのでございます。ところが、東京オリンピックの際に正式種目として柔道を認めてもらうために、日本の柔道界は涙をのんで、その西洋的合理性である階級制を取り入れたのでございます(「無差別級」という階級が長く維持されていたのも、この経緯の名残)。ですから、日本国内では精神としての「柔道」を育みながら、国際試合でのスポーツとしての「JUDO」も認めていくという二元化(ジレンマ)を、柔道界は受け入れております。
さて、相撲界にお話を戻しますと、多くの外国人力士の存在は、「興業としての相撲」を成立させるためには、今やなくてはならない存在でございます。と同時に、その外国人力士が増えれば増えるほど、伝統的な相撲道の精神は希薄になっていることを否めません。その精神の希薄を感じつつも、興行収入を獲得するために外国人力士をどんどん幕内に押し上げてきた。つまりここに、日本相撲界の金権的な体質を感じるのでございます。外国人力士は金を呼ぶ。その中でも飛び切り強い朝青龍は、特に金を呼ぶ。その朝青龍を取り巻くようなお金の流れが出来る。表向きは「相撲道」などと精神論を掲げながらも、興業を成立させるための外人力士起用には、金権的なうさんくささが見え隠れする。外人力士の人気にあぐらをかくうちに、「純粋」なものと「邪(よこしま)」なものとがそれぞれ一人歩きをはじめてしまい、その収拾が付かなくなってしまったというのが、ここ10年ぐらいの相撲界のジレンマではないでしょうか。
結局、もっとゆっくりじっくり育てることも出来た大型外人力士を、興業を成立させるための金権体質が無理な早熟栽培を行った、という感じでしょうか。本来は教育者である高砂親方が毅然とした指導をするべきなのでしょうが、その高砂親方と朝青龍との間に、なにか一蓮托生のような「なれ合い」を感じたりいたします。多分、お金で繋がった人間関係ではないでしょうか。その打算的な人間関係が朝青龍を増長させ、暴走させたのかも知れないのでございます。ただね、誰かを責める、というわけにもいかないと思います。これはすべて、「流れ」だったのでございます。日本相撲界の低迷期に登場し、本人のあずかり知らないままにその大きな流れに乗せられてしまい、「金になる」と思われたとたんに様々な‘取り巻き’がワラワラと沸いてきて、本人の望むと望まざるに関わらず、「世間が求める朝青龍像」を演じ続ける。そして、いつのまにかそれが‘板について’しまい、そうやってヒールは育てられるのでございます。