店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
本日は、テレビで見た映画の話をふたつほど。ひとつは『武士の一分』。先日放送されたものを、何気に見ておりました。実は、この映画は映画館にかかったとき、まったく興味を持たなかったのでございます。というのも、主役が「木村拓哉」ということ。ワタクシ、この映画を観るまでは、木村拓哉の演技力を全く認めておりませんでした。何のドラマに出演しても、いつもそこには劇中の人物ではなく「木村拓哉」がいるだけ。というか、木村拓哉のキャラクターに合わせて、脚本が書かれていると言うべきか。結果、何を演じても同じようなキャラクターになる。そんなネームバリューだけを使用するようなドラマ起用に、ウンザリしておりました。
ところが、この映画の山田洋次監督、見事に木村拓哉を使い切っている感がございます。木村拓哉本人も、この映画はキツかったでしょうね。監督がまったく妥協していないのがよく分かるのでございます。でもその結果、この映画での木村拓哉は、実にいい演技をしております。そして、こういった役者を甘やかさない監督に触れたとき、役者は大きく成長するキッカケを見つけたりいたします。逆に、ネームバリューだけ借りて役者を甘やかすような「よくあるドラマ」は、役者の成長の芽を潰しかねません。木村拓哉さん、この映画でいい経験をしましたよね。そして、この映画を映画館に観に行かなかったことを、非常に後悔しております。
さて、次は、昨晩の深夜に放送されていた『夕凪の街 桜の国』という映画でございます。これは、2009/8/6のこの欄でワタクシが紹介した漫画を、映画化したものでございます。この作品は、原爆、そしてその被爆の後遺症で苦しむ人たちが主人公。ほのぼのとしたストーリーの中に、実に巧みに被爆者の苦しみを盛り込んだ、考えさせられる作品になっております。この作品の主人公の、ある印象深い言葉をご紹介いたします。
分かっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたこと
「死ねばいい」と思っただけでは、人は死なない。「死ねばいい」と思い、それを実行に移す人がいると、ナイフを振り回す人がいたり、女性の首を絞めてしまう人がいたり、あるいは、ビルに旅客機が飛び込んだり、ユダヤ人が虐殺されたり、原爆が落とされたりする...そしてこの漫画は、主人公が死ぬ場面で、さらにこのようにも書いております。
原爆を落とした人は私を見て、 「やった! また一人殺せた」 と、ちゃんと思うてくれとる?
ただ「死ねばいい」と思われ、理由も分からずに殺されていく無念さ、そんな思いがこの言葉には込められております。そして、戦争という殺戮(さつりく)のシステムが、「死ねばいい」という言葉の重さをどんどん希薄にしていく。例えば、我々が原爆の被害者に対する思いを深くするのであれば、私たちは同時に、真珠湾で死んでいったアメリカ兵にも思いを寄せることが必要でございます。なぜなら、そのとき我々日本人もアメリカ兵のことを「死ねばいい」と思っただろうから。そう、お互いに相手を「死ねばいい」と思ったとき、戦争が始まる。けれど、「死ねばいい」と思った人と、それを実行する人は別の人。それが戦争の殺戮システム。だから、死んでいった人たちには、無念さばかりが残る。