店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
いや、この回の『SONGS』はすごかった。感動いたしました。鬼束ちひろさんの、魂を絞り出す様な歌い方に、心を揺さぶられたのでございます。そして、鬼束さんの、あまりにも繊細なガラス細工の様なその心情にも触れたのでございます。
インタビューにて、「自分は弱い、すごく傷つきやすい」とおっしゃってました。と同時に、「人を傷つけてしまうことにも、異常に敏感だ」とも。外界との小さな接点の度に傷つく事を重ねていき、ボロボロになっていき、そして、そこから生まれる歌なのでしょう。
さて、同じ日に放送されました、やはりNHKの土曜ドラマ『心の傷を癒すということ』の中で、気になるセリフがございました。精神科医の主人公の元に、アルコール依存症の女性が相談に来る。その女性、「私は弱いから...」と心情を打ち明けるのですが、先生は真逆の言葉をその女性に返すのでございます。
よく、「心が弱いから苦しむ」と考えがちですが、実は、「生きようと強く思っているからこそ苦しむ」ということなのかも知れません。その「想い」と「現実」との間の溝がどうにもならないとき、人はそれを苦しみと言うのかも知れません。
これは、仮定かも知れません。これは、詭弁かも知れません。それじゃぁということで、真逆(対偶)を考えてみました。「悩まない人こそ、本当は弱い人なのか?」と。論理学では「ある命題とその対偶は真偽が一致する」、そんな法則が有るからでございます。
悩まない人というのは、拘りの無い人? 諦めの早い人? 何も考えてない人? ふむ、確かに、あまり悩みそうにない。そして、これが「弱い」という事なら、弱いということは、「自分の心と向き合っていない」ということになる。強いから自分に向き合い、悩む。弱ければ、そもそも自分から逃げている。う~ん、今ひとつ、シックリと来ない。
ただね、自分で自分のことを「弱い」と言える人は、本当は強い人ですよ。自分のことを「弱い」と言うのには相当な気力が必要ですからね。逆に、「強い」と言っている人こそ、実は自分の弱さから逃げている弱い人なのかも。ワタクシの思考は迷走いたします。
ここでね、またふと思い出したのが、『歎異抄』の悪人正機説。「善人でさえ救われるのだから、悪人ならばなおさら救われる」というあの言葉。自分を「悪人」と自覚出来るのは善の心が有るから。悪人であるからこそ、より善の心を力強く持っているからと教える言葉でございます。