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薫さんのひとりごと

店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです

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2019-10-29 【異論は認める(キッパリ)】

ユニクロの社長が軽はずみな発言をして、いろいろ言われております。時期が時期だけに、もう少し言葉を選べばよろしいのにね。あるいは、雑誌の編集部に恣意的な編集をされてしまったか? 社長の真意は分かりませんが、「日本人が劣化している」という発言には、ほんのちょっとうなずける部分もございます。

そこで、ひとつ提示したいのが、この言葉。「多元論」「多元主義」という語をご存じでしょうか? 大まかに言うと、「多様性を容認する」という意味。政治・化学・哲学・宗教といったあらゆる分野で使われる言葉でございます。

対となる言葉が「一元論」。世の中の出来事を、すべて「ひとつの原理」で説明しようとする考え方でございますね。ただ、これとは別に最近生まれた造語で、「反多元論」「反多元主義」という語がございます。この「反多元」を端的に説明しますと、「異論を全く認めない」という考え方だそうでございます。

ワタクシはそもそも、日本人というのは多元主義だと思っておりました。宗教のるつぼと例えてもいいほどに、様々な宗教が生活の中に溶け込んでいる。何千年も前の神社仏閣と近代建築が並んで鎮座している。そんな様子を見るに、様々な価値観を貪欲に吸収して日本的に昇華させていく多元的な能力が日本人にはあると思っておりました。

それが「アレッ?」と思ったのは、2011年の東北大震災の後でございます。日本中が「即、全炉停止、脱原発」一色に染まってしまう。異論を差し挟む余地は全くありませんでした。稼働の「か」の字でも言おうものなら、それこそ悪魔か非国民のような罵りを受けたものでございます。

当時、ワタクシは「復興を最優先とするべく、動かせる炉は出来るだけ動かし、余分な出費を押さえるべき」という話をしておりました。まぁ、結果は、火力発電移行のために、ボッタグリ料金の天然ガスをロシアから購入するハメに...ワタクシ、今でも、あの時の騒ぎは、ロシアの陰謀ではないかと勘ぐっているのでございます。

「一元主義」「多元主義」、どちらにも長所・短所がございまして、考え方の手法としてはどちらも有効でございます。しかしですねぇ、この異論を全く認めないという「反多元主義」というのは厄介でございますよ。どれだけ厄介かと申しますと、実に良い例がすぐ近くに有るからでございます。

お隣の韓国が、伝統的に、この反多元主義でございます。異論を全く認めないから、議論の余地が無い。「落とし所を見つける」という政治手法は不毛となる。自分が「善」、相手が「悪」だと決めつけて、グレーゾーンを見出そうとしない。ほら、もう、どれだけ厄介か、よ~く分かるでしょ。

ただ、今、日本がこの反多元主義に染まりつつある。これは大問題でございますよ。韓国を反面教師として、日本は自らのこの反多元主義傾向に気付くべきでございます。今の韓国の窮迫を笑ってる場合じゃござんせん。日本に蔓延し始めてる反多元主義が、今後、日本の首を締めることにもなりかねないのでございます。

例えば、憲法改正。「改正しない派」と「する派」が真っ向対立しておりますが、それこそ、「どこを改正して、どこを残すか」というグレーゾーンのお話を進めるべきでございます。「改正したら即戦争が始まる」みたいな極論がございますが、その前の改正議論そのものが、勝つか負けるかの戦争状態になっております。

日本人がこの反多元主義に傾くのは、農耕民族ゆえの全体主義というのもあるでしょうが、戦後の画一的な教育に端を発していると思いますよ。教育の場に「議論」という要素がほとんど無く、子供達は「模範解答ばかり」を要求され続ける。ほら、「模範解答以外は全く認めない」という反多元主義なのでございます。

この「模範解答しか認めない」という画一的な教育から脱却すべく生まれたのが、「ゆとり教育」のはずだったのでしょうが、しかし、日本の教育の構造全体に、その「真の」ゆとり教育の意図を理解する受け皿はございませんでしたね。結局、「ちょっとゆるい模範解答以外は全く認めない」という反多元主義は踏襲されてしまったのでございます。

先日、リチウムイオン電池の発明で、日本の研究者の方がノーベル賞を受賞いたしました。発明とか発見には、多元的な感性が必要でございます。このまま日本人が反多元主義に走りますと、今後、日本人のノーベル賞の受賞は少なくなっていくのかなぁ、そんな心配もしちゃうのでございます。

学校の先生方、教育にたずさわる方々、どうか子供達に「議論」をさせてあげて下さい。で、その議論では「結論」を求めないで下さい。尻切れトンボでいいのでございます。だって、もしかしたらその結論は、その子供が一生かけて追い求める人生のテーマになるかもしれないからでございます。

間違った答えを出しても、簡単にバツをしないで下さい。どうか、「どうしてそう思ったの?」と聞いてあげて下さい。トンチンカンな答えには、他の人とは違った考え方が出来る多元的才能の種が埋まっているかもしれないのでございます。

いつの日か芽吹くかもしれない。芽吹かないかもしれない。でも、もし種を潰してしまったら、その種から芽吹く可能性は未来永劫失われるのでございます。たとえ模範解答じゃなくても、子供の素晴らしい発想には、どうかマルを与えてもらえないでしょうか?

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。日本を脅かしつつあるこの「反多元主義」「異論を全く認めない」という考え方の害が、少しでも認知されるといいなぁという思いでしたためました。では、では。


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