店主、名古屋薫が、お店に関係あることや、お店に関係ないこととか、
いろいろ書いたりするかもです
ちょっとした記事が気になって、『週刊新潮』を買ってみる。「美談に眉を顰(ひそ)める俗世間」という記事である。献身な介護や最期を看取らなかったとか、そういった美談が演出っぽく感じられ、巷(ちまた)の一部では拒否反応を起こしている、ということを報道している。そう、先日なくなられた「南田洋子」さんと、その夫「長門裕之」に関する記事である。南田洋子さんはつい先日まで元気な顔を見せてバラエティーなどに出演していたような気がするが、ここ数年間は認知症が進み、全く世間には顔を出していなかったという。"忘れられる"、"気づかれない"、というのは、本来、芸能人にとっては辛いことなのだが、認知症の南田さんにはそれさえも感じなかったことでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
さて、ワタクシが引っかかったのは、「最期を看取らなかった」という部分でございます。ワタクシの母親は若い頃、松竹の子役そして女優をやっておりました。その母親の父親、つまりワタクシの祖父は、新派の女形をやっておりました。ワタクシが物心ついたときには、母親は舞台とは全く縁のない生活になっておりましたが、ことあるごとに「役者は親の死に目に会えない」という語を繰り返しておりました。きっと母親は祖父からも同じように言われていたのでございましょう。母親が祖父の"死に目"に会えたかどうかは、今となっては知るよしもございません。しかし、母親の「役者は親の死に目に会えない」という語へのこだわりを考えると、きっと会えなかったのかもしれませんね。
その母親も、4年ほど前に逝っております。ワタクシ、その母親の死に目には会えておりません。これは、別にワタクシが舞台の仕事をしていたとかいうのではなく、母親がわざわざ、ワタクシの不在時を選んで逝った(としか思えない)からでございます。照れくささなのか、ワタクシへの思いやりなのか、ワタクシが病院を留守にしたほんのわずかな時間をついて、逝ってしまいました。1ヶ月も前から病院に泊まり込みで待機していたにも関わらず、その不意打ちのような逝かれ方、実に、あっけなさを感じたものでございます。